2021-04-01から1ヶ月間の記事一覧

長州の政治経済文化(11)

鮎川は満洲重工業開発の顛末について次のように語っています。 “重工業建設に邁進した”と思われているが、白状するが、実際に満州に赴いてから暫くして農業開発に切替えようとした。資源の種類は多彩でも量の点で重工業建設など思いも及ばない状況であった。…

長州の政治経済文化(10)

1920年代から40年代初頭にかけて鮎川は、久原財閥の引継ぎ・公開持株会社(日本産業株式会社=日産)への改組、日本鉱業株式会社の設立、安来製鋼所、戸畑鋳物の日立金属への吸収合併、自動車製造の開始(※)等により「日産コンツェルン」(現在の日産・日立…

長州の政治経済文化(9)

第一次世界大戦末期の東洋製鉄による戸畑製鉄の吸収合併、さらにその製鉄事業の八幡製鉄所への吸収合併という事業のさなか、鮎川は義弟(とはいっても鮎川の11歳年長)の久原房之介について「この間久原と私との間に思想上の断絶を発見したので、将来事業を…

長州の政治経済文化(8)

戦後の鮎川は中小企業問題にもっとも集中的に取り組むことになりますが、その萌芽はそもそも、大学卒業後、井上馨から三井入社を推薦されたのを断り、一職工としてキャリアをスタートさせたことにあると言えるでしょう。また、顧問代理として貝島の経営改革…

長州の政治経済文化(7)

藤田家融資による戸畑鋳物の蘇生後、第一次世界大戦の特需が業績を向上させます。このころ鮎川は、戸畑で製鉄事業設立を構想、これを「東洋製鉄」に吸収させ、さらに終戦後、八幡製鉄所が東洋製鉄を合併・事業拡張するという展開となります。 また鮎川は、桐…

長州の政治経済文化(6)

1910年、鮎川は戸畑鋳物を設立します。可鍛鋳物をいち早く導入したものの、注文とりが難しく、赤字続きとなったようです。ようやく呉海軍工廠の演習用銑弾の注文を取り付け、砲兵工廠の技師を引き抜いて一任したものの、納品がすべて不合格となってしまいま…

長州の政治経済文化(5)

アメリカ修行中の鮎川は、労働効率の高低をもたらす体格の違いに直面しつつも、日露戦争後、新興国として世界に名をはせつつあった日本を背負うかのように労働に邁進します。

長州の政治経済文化(4)

井上候に「貴様はエンジニアになれ」と「申し渡」された鮎川は、「立身出世」に燃えて山高卒業後、東京大学工科に進学、ところが卒業時、井上候から三井入りをすすめられたにもかかわらずこれを辞退、「政界、財界多数のエリート」に「二重人格の人が多」く…

長州の政治経済文化(3)

地域独特の気質もさることながら、生来の、そして環境の中で育まれ受け継がれる気質をうまく引き出して「人づくり」を行うためための原動力となるものとして、教育支援のための体制整備も挙げられるでしょう。その意味で鮎川の次のような記述は参考になりま…

長州の政治経済文化(2)

鮎川義介(あゆかわ・よしすけ 1880-1967)という、山口・大内出身の実業家・政治家(鮎川義介 - Wikipedia)がいまひそかに(?)注目されています。

長州の政治経済文化(1)

当研究会は不定期開催となりますので、活動成果はそう頻繁には更新されません。そのかわりに、というわけでもないのですが、ここでは、会の趣旨や想定している研究テーマについていくつか取り上げてみたいと思います。