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全人的教養を目指すゼミ@下関の活動報告です

【思想史・制度史研究会(地域文化研究会)】長州の政治経済文化①

 当研究会は不定期開催となりますので、活動成果はそう頻繁には更新されません。そのかわりに、というわけでもないのですが、ここでは、会の趣旨や想定している研究テーマについていくつか取り上げてみたいと思います。

 

 「長州の政治経済文化」と銘打って、いくつかの研究テーマを想定しています。

 内容としては、以前ゼミで輪読のテーマとして取り上げた明治維新史(明治維新の思想 カテゴリーの記事一覧 - encyclios disciplina (hatenablog.com))と関連します。

 「政治経済文化」というのは耳慣れない言葉ですが、「政治」「経済」「文化」を並列したものではなく、「政治文化」と「経済文化」を並列したものというほどの意味です。ここで「文化」は、狭い意味では思想や制度、慣習や習俗、学問や芸術といった人類の生み出す知的・情緒的営為の具体的所産をあらわしますが、広い意味では「生活様式の全体を反省的にとらえたもの」と仮に定義しておきたいと思います。

 一方、「長州」についてです。

 これについてもここでは多くは語りませんが、面白いエピソードがありますので紹介します。

 下関出身の直木賞作家、故・古川薫(1926-2018)は、「長州藩」という毛利藩の呼称に、防長の位置関係が象徴されているとみています。明治以降、中央に進出した人物群の大半は長門(おもに萩)出身で、周防には“非業の死”をとげたり“不遇の生涯”をおくった人物が目立って多いと言います。そのことは、赤根武人(1838-1866 奇兵隊第三代総監、第一次長州征伐後、藩内・対幕府融和に動いたことがスパイ行為とみなされ処刑)のたどった運命が象徴しています。 

「荒波の日本海に面した山陰側は陰湿で気候もきびしく、明るい瀬戸内海に面した山陽側は気候も温和である。貧しい山陰に対して、山陽はゆたかな生産地であり、封建支配の本拠がある山陰に対して、山陽は被支配地の関係におかれている。…長州藩を維新の先導者へ突き動かしたのは、関ヶ原いらいの徳川に対する遺恨であったと一応はいえるのだが、藩内事情としては、そのような防長両国の矛盾がエネルギーを生み出したのである。防長、つまり山口県の歴史的発展過程は、山陰と山陽を両極としたいわば弁証法的な視野でとらえることができる。」(古川薫『長州歴史拾遺』1973 より)

 「山陰と山陽を両極とした弁証法的な視野」というのはけっしてわかりやすい表現ではありませんが、「陰陽思想」(陰陽 - Wikipedia)という言葉に見られるように、東洋の中核思想のひとつが地域の呼称に用いられるということには、それなりの「意味」を見出すこともできるかもしれません。

 いまでこそ、山陰と山陽の関係は、後者の前者に対する圧倒的な「経済的」優位という側面ばかりが目立っています。しかし古川薫は、古くからのその側面にくわえて、毛利藩の本拠にして松下村塾の門下生を多数、維新の功労者として輩出した萩=山陰が元来、周防の「政治的」主導権を握っており、そのことから長門を反映した呼称「長州」が周防全体の呼称とされたという事情を強調します。ですからこの「弁証法」は、「政治と経済の弁証法」でもあるのです。

 高度経済成長、低成長、バブル経済バブル崩壊を経て、長きにわたるデフレ時代、そして震災、パンデミック、…混迷の時代にあって、政治の優位の時代にまた入ろうとしているのではないかどうか。その場合、近年の「ポピュリズム政治」は人類史全体の動向においてどのような意味をもつのか。

 もしも「政治の優位」が時代相の一つの側面をあらわすのだとすれば、戦後日本の経済優位時代以前の時代を、幕末維新に由来する政治主導の時代ととらえ、その震源地として、「山陰と山陽の弁証法」が縦糸/横糸に目立たたぬ形で織り込まれている周防=長州の歴史をとらえなおすという視点が成り立つのかもしれません。