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全人的教養を目指すゼミ@下関の活動報告です

【思想史・制度史研究会(地域文化研究会)】長州の政治経済文化⑪

 鮎川は満洲重工業開発の顛末について次のように語っています。

“重工業建設に邁進した”と思われているが、白状するが、実際に満州に赴いてから暫くして農業開発に切替えようとした。資源の種類は多彩でも量の点で重工業建設など思いも及ばない状況であった。高埼達之助君の判断を求めた結果、農産物輸出が可能との判断となった。北米式大農法を米国の日本人2世を受容れて実施する事にした。本計画は政府要人の了解する処であったが、軍は真っ向から反対で中止させられた。

2011-ayukawa.pdf (jahfa.jp)

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【思想史・制度史研究会(地域文化研究会)】長州の政治経済文化⑩

 1920年代から40年代初頭にかけて鮎川は、久原財閥の引継ぎ・公開持株会社日本産業株式会社=日産)への改組、日本鉱業株式会社の設立、安来製鋼所、戸畑鋳物日立金属への吸収合併、自動車製造の開始(※)等により「日産コンツェルン」(現在の日産・日立グループ)を築きあげます。その過程で、金の輸出再禁止(1931年)を機に高橋是清蔵相に金の値上げを提言、これが実行されると「日鉱株をプレミアつき売り出し」て日産に巨利をもたらしました。

※ 1937 Nissan Phaethon advertisement - YouTube 

 ニッサンの全車種を紹介!ニッサン徹底解説!(1935年~1960年) (car-me.jp)

 interview8.pdf (jsae.or.jp)

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【思想史・制度史研究会(地域文化研究会)】長州の政治経済文化⑨

 第一次世界大戦末期の東洋製鉄による戸畑製鉄の吸収合併、さらにその製鉄事業の八幡製鉄所への吸収合併という事業のさなか、鮎川は義弟(とはいっても鮎川の11歳年長)の久原房之介について「この間久原と私との間に思想上の断絶を発見したので、将来事業を共にすまいと決した」と書いています。

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【思想史・制度史研究会(地域文化研究会)】長州の政治経済文化⑧

 戦後の鮎川は中小企業問題にもっとも集中的に取り組むことになりますが、その萌芽はそもそも、大学卒業後、井上馨から三井入社を推薦されたのを断り、一職工としてキャリアをスタートさせたことにあると言えるでしょう。また、顧問代理として貝島の経営改革に取り組んだ際にも、「一族一事業」でなく「一人一事業」とし、人材登用を進めて財閥体質を改めさせています。こうした現場主義、中小規模の独立主義が、鮎川独自の経営思想であり、それが戦後の中小企業問題への取り組みにつながっていくわけです。

 1922年、鮎川は持株会社「共立企業」を設立します。ここにも独自の経営思想が反映されることになります。

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【思想史・制度史研究会(地域文化研究会)】長州の政治経済文化⑦

 藤田家融資による戸畑鋳物の蘇生後、第一次世界大戦の特需が業績を向上させます。このころ鮎川は、戸畑で製鉄事業設立を構想、これを「東洋製鉄」に吸収させ、さらに終戦後、八幡製鉄所が東洋製鉄を合併・事業拡張するという展開となります。

 また鮎川は、桐野炭鉱(大之浦桐野炭鉱第二坑)でガス爆発事故を起こした貝島鉱業の経営改革に、貝島家の興隆が井上馨(および三井財閥)に負うものであった縁から取り組むことになります。

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【思想史・制度史研究会(地域文化研究会)】長州の政治経済文化⑥

 1910年、鮎川は戸畑鋳物を設立します。可鍛鋳物をいち早く導入したものの、注文とりが難しく、赤字続きとなったようです。ようやく呉海軍工廠の演習用銑弾の注文を取り付け、砲兵工廠の技師を引き抜いて一任したものの、納品がすべて不合格となってしまいます。

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【思想史・制度史研究会(地域文化研究会)】長州の政治経済文化⑤

 アメリカ修行中の鮎川は、労働効率の高低をもたらす体格の違いに直面しつつも、日露戦争後、新興国として世界に名をはせつつあった日本を背負うかのように労働に邁進します。

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