長州の政治経済文化(10)

 1920年代から40年代初頭にかけて鮎川は、久原財閥の引継ぎ・公開持株会社日本産業株式会社=日産)への改組、日本鉱業株式会社の設立、安来製鋼所、戸畑鋳物日立金属への吸収合併、自動車製造の開始(※)等により「日産コンツェルン」(現在の日産・日立グループ)を築きあげます。その過程で、金の輸出再禁止(1931年)を機に高橋是清蔵相に金の値上げを提言、これが実行されると「日鉱株をプレミアつき売り出し」て日産に巨利をもたらしました。

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 ニッサンの全車種を紹介!ニッサン徹底解説!(1935年~1960年) (car-me.jp)

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  日産はさらに、大日本人造肥料を株の譲渡を通じて合併、鮎川は「公衆持株会社への吸収合併の理論と操作は、私の新発明に属する」と誇ります。たしかにそれにより先行財閥をもしのぐ規模の事業展開が可能となったのは事実ですが、このころから鮎川の事業は政治色を強めていきます。

 1937年から1942年が鮎川の「満洲重工業開発」総裁時代ですが、これは鮎川の提唱に由来するとされるいわゆる「河豚計画」以来の、高度に政治色を帯びたプロジェクトでした。ここで政治色として重要であるのは、まず、株式参加方式での外資(とくに米資)導入による満洲利権の確保なのですが、重工業開発の手法に関しては、ソ連の影響下での大幅な計画経済方式の導入も重要です。

 後者、計画経済方式のほうは、石原莞爾主導による関東軍の構想であるのに対し、前者のほうはある意味鮎川の独創です。そもそもが資源の賦存量(見込み)に頼る計画経済構想であり、これを鮎川の外資導入構想が補う形で進められようとしますが、そして鮎川自身、そのためにたいへんな努力を重ねますが、そもそも「〔石炭、鉄鉱石の〕賦存状態は飛龍型で量産は不可能」ということで重工業開発を早々と断念します。鮎川は大規模農業の導入による満洲の農業国化に舵を切ろうと目論見ますが、対露作戦の一環として「500万人」規模で日本人を入植させようという石原の構想と対立、米資導入の方もパネー号事件(1937年)により頓挫、最後の頼みの綱として1940年、「満洲の大豆とドイツの機械とのバーター」という駐満ドイツ公使の提案を受けて訪独、ヒトラーとも面会しますがあっけなく却下。

 このとき欧州で合流した白洲次郎から戦争の行方についてイギリス・フランスの勝利は間違いない(とくに「イギリスの貴族にはアングロ・サクソンの魂が奥深く根をおろしているのに対し、成り上がり者のヒトラーのまわりには烏合の衆しかいない」)と聞かされたこともあり、鮎川は日米開戦の翌年、シンガポール陥落という(やや不思議な)タイミングで、満業から手を引く決意を固めます。

 そもそも鮎川は、計画経済と米資導入とを組み合わせるという満業のアクロバット的構想において、資源開発のための資金調達、そして相手国(とりわけ米国)との利害共有による戦争阻止を念頭に置いていました。日米開戦も可能な限り阻止しようとしたと述懐しており、とりわけ開戦直前のタイミングで、「米国が日本の満蒙指導権を認めかつ米貨五十億ドルを日本に引渡すなら日米戦争を回避してもよい」という構想を駐米秘書に伝達しています。「米国は対独、対日の両面作戦を一方作戦に片寄せすることができ、日本は太平洋に波風立てないだけの任務を負うことになるから、高価な戦争をするよりも安上がりでリスクがない」という名目で、駐米大使にもフランクリン・ルーズヴェルトの財政顧問バーナード・バルークにも好評だったとのことですが、近衛文麿を申達方とする建白書は東条内閣に差し戻されてしまいます。

 建白書の筋書きは次のようなものでした。

(イ) 米国は日本の満蒙指導権を認めること。

(ロ) 米国は蒋、汪両政府の提携を斡旋し、日本と協力して中国の政治的独立、門戸の世界的開放に協力すること。

(ハ) 日ソ間に無兵緩衝国を設けること。

(ニ) 日本は独伊の枢軸から手を引き、日米間太平洋連盟を結成すること。

(ホ) 日米通商条約を復活し、米国は日本に五十億ドルの借款を与えること。 

 いうまでもなく、「(ニ)」の日独伊枢軸は、満鉄総裁から外相に転じた松岡洋右による仕事ですが、1936年から39年にかけて満洲の経済開発に携わった岸信介を介して(岸信介 - Wikipedia 松岡洋右 - Wikipedia)いずれも周防出身の縁戚関係にあたる松岡のことを鮎川は「松岡洋右と私との私交は"爾汝"の間〔おまえ、きさまなどと呼ぶ親しい間柄〕にあって、情義として、彼は私の満業総裁就任を祝福したが、満鉄総裁という公の立場では、進退両難に陥って苦しんだのは気の毒であった」と述べています。

 アメリカで修学経験を積んだ松岡と、同じくアメリカで職工体験を積んだ鮎川とでは、アメリカとの戦争回避を至上命題としていた点が共通していますが、外相時代の松岡の混沌とした外交方針にくらべるなら鮎川の上記の和平案はより現実的に見えます。しかしそもそも、政治色のきわめて濃い満洲経済開発計画そのものがその資金調達可能性や資源状態の面でほぼ「絵に描いた餅」に近かったことになり、鮎川のより現実的な和平案も色あせて見えてきます。

 

(関連)【満州文化物語(50完)】満州をアメリカにしたかった 鮎川義介の見果てぬ夢(1/3ページ) - 産経ニュース (sankei.com)