長州の政治経済文化(9)
第一次世界大戦末期の東洋製鉄による戸畑製鉄の吸収合併、さらにその製鉄事業の八幡製鉄所への吸収合併という事業のさなか、鮎川は義弟(とはいっても鮎川の11歳年長)の久原房之介について「この間久原と私との間に思想上の断絶を発見したので、将来事業を共にすまいと決した」と書いています。
具体的にどのような「思想上の断絶」があったのかは書かれていません。当時、久原は茨城の日立鉱山の機械化を中心に久原鉱業を設立後、戦争による景気回復に乗じて東北・北海道の石油・石炭開発にも取り組んで事業を拡張していました。この間、下松の大工業都市化計画の失敗もありましたが、大きかったのは短兵急な事業拡大方針だったかもしれません(久原房之助 - Wikipedia 久原財閥 - Wikipedia)。
戦後の不景気のなか資金繰りが困難となりますが、そこでも鮎川の行動力が久原を救います。田中義一の懇願により鮎川はこのときも奔走、ふたたび藤田の融資を取り付け、難局を切り抜けます。久原鉱業は鮎川に譲渡され、これがのちの日産自動車の基礎となります。
久原はのちに田中の推薦もあり政治家に転じますが、政治家としての久原には鮎川はおおいに共鳴していたようです。首相在任時、田中はもともと久原に外相ポストを約束していたにもかかわらず、外相をみずから兼任し、久原は逓相に甘んじさせます。このとき久原が鮎川同行のもと田中邸を訪問、ものすごい剣幕で田中に抗議した際、鮎川は久原に同調加担したりもしています。
外相になる前の「前行事」として経済特使となり欧露に派遣された際、久原が持ち帰った構想には、満洲時代の鮎川の外交理念にも相通じるものがあり、興味を惹かれます。
…久原は、スターリン、張作霖と手を握りあって、スターリンはシベリアを、張は満州を、日本は朝鮮を出しあい、そこに無軍備、無関税の一緩衝国〔緩衝地帯?〕をつくりあげる。そして東洋の恒久平和を図るという久原らしき構想をみやげにして帰ってきた。この事については、久原は行きも帰りも奉天に立寄って、総領事だった吉田茂氏とも意気相投じたと洩らしていた。だが後日仲違いになったのはかくれもない。私はそのとき、これこそ太閤秀吉の四百余州攻略の「三国処置太早計」につぐ雄図だと傾倒したものである。それを遂行するには、久原をまず外相に、それから首相にしなくてはだめだと考えた。
…後年、米ソの関係、ひいては世界の現状に照らし、この夢が正夢であったら、今の世界はどうなっていただろうか。
秀吉の対外侵略に重ねるなど、いささか手前勝手な論理だと見えなくはありませんが、 外交や平和の実現に際してグランドデザインがいかに重要であるかについて考えさせるエピソードではあります。