長州の政治経済文化(5)

 アメリカ修行中の鮎川は、労働効率の高低をもたらす体格の違いに直面しつつも、日露戦争後、新興国として世界に名をはせつつあった日本を背負うかのように労働に邁進します。

 …職場での仕事だが、私には砂込めから湯運び、それから鋳上がった品物のかき集めに至る一連の作業が、日課として与えられた。その中で反射炉から流れ出る溶鉄を順ぐり取鍋〔とりべ〕に受け、かけ足で持ち場の鋳型のところまで運んで湯注ぎをする、それがすむとふたたび反射炉に戻って溶鉄を取鍋に受ける、運ぶ……、この運動を数回繰り返す仕事があった。この労働は向こうでもかなりの苦役とされていた。日本では取鍋をいれてせいぜい四、五貫の重さであったものを、向こうでは倍くらい、しかも、それを一気呵成にやるのだから、芝浦では一人前だった私も、ここへ来ては問題にならなかった。私は毎日、綿のごとく疲れ切って帰宿した。足の甲に湯がたれて火傷をしたのもそんなときである。しかし、一方、"日本人はからだは小さくても大男のロスケをやっつけた"という評判が、このいなか町にも行き渡っていた手前から、私は火傷がなおってからもがんばり通した。

 ところが、2週間もすると現地労働者に劣らぬくらいの労働効率を達成したといいます。体格や体力が急に伸びたわけでは当然なく、中学時代に習った柔道の「あのコツ」によるものだったとのことです。この逸話を鮎川はのちに(昭和3年)「私の体験から気づいた日本の尊き資源」と題した講話で次のように残しています。

……過去においてこれほど意義のあるまたと得難い体験はない。爾来私は自分の事業上、この体験を生かして信念化した。すなわち、日本人は労働能率において少しも西洋人に劣るものではない。彼らが体格や腕力にすぐれている代わりに、我らは先天的に手元の器用と動作の機敏とコツという特性を持っている。頭も負けない。だから仕事の効率を彼ら以上にあげ得ないことはない。はたしてそうだとすると、賃金は米国にくらべて五分の一内外だから、もし組織や規律や工程等の要素を、米国並みにレベルアップすることができたら、輸入の防遏〔ぼうあつ〕はもとよりたとえ運賃、関税、金利のハンディキャップはあっても、逆に輸出できないはずはない。ご承知の通り国土が狭くてこう人間がふえては、農業立国は成り立たない。天然資源も何一つないとすると、第一次産業は望みがない。列強に伍して行ける方策としてはただただ第二次、第三次〔ママ〕の加工工業が残されているのみである。思うに神様は絶対に公平だ。日本は領土や物的資源に恵まれぬ代わりに、世界無比の万能工業人の種子を余るほど授かっている。これこそ語弊があるかもしれぬが唯一の尊き資源でなくて何であろう……」

 「手元の器用と動作の機敏とコツという特性」に恵まれた「世界無比の万能工業人」としての特性は、鮎川がみずから体得したものであって、自分は現場で働かずしてただ労働者に対し「日本人たるものは……」と、まるで指図するかのように述べられたお題目ではありません。体格や体力の劣位を十分に補いうる器用さ、機敏さ、そしてコツは、鮎川自身が述べるように日本の経済成長を支える「唯一」ともいってよい資源であり、日本人の特性を生かし切った「労働哲学」の粋ともいえるものでしょう。しかもこれを鮎川はみずから「現場で働き体で学ぶ」という姿勢で獲得し表現します。これが鮎川の元来の(人の上に立って人を支配する地位身分を獲得するという意味での)「立身出世」欲を根本から修正した新たな方向となります。