服部之總の明治維新論

ゼミで服部之總の明治維新論を少し読みました。1929年初版の『明治維新史』です。この中から「第一章 世界市場の形成と明治維新」のまとめを掲載します。用いたテキストは、服部之總全集の第3巻(福村出版、1973年)です。

 1.支那
 支那は1833年、東印度会社の支那貿易独占が個人貿易に移されて以来、全封建主義に対する資本主義の魔の手がようやく伸びた。39年―42年の阿片戦争はこれに対する旧権力の必死の抵抗であり、多額の償金と五港の開港とついで英国のほかさらに全世界への市場開放、そして猛烈な崩壊過程をもたらした。暫くの間にこの国は廉価なる英米の機械製造品で埋められ、支那の手工労働に依存する産業は機械の競争にあって滅びた。中華国は社会的危機に遭遇し、租税は入らず国家は破産に瀕し、人口は大部分貧窮に陥り、反乱を起こし、国は既に武力的革命に脅されていた。このようにして、世界市場への支那の開放は英国によって闘いとられたものであるが、いったんなされるやいなや今度は「安価な商品」の武器をもって、支那封建主義の全基底を侵し、「慢性的反乱」の生起を誘致し、ついに公然たる武力革命を組織させた。42年の開港後の支那新市場によって拡大された世界市場と、それに伴って膨張した英国産業の間の調和は、今や長髪賊の乱によって支那市場の突然の縮小を招致することにより、不可避的な破綻と危機に見舞われるに違いない。この封建的権力にたいする内乱によって市場の突如の縮小を見んよりは、むしろ昨敵「旧秩序」を維持し、農民戦争を圧伏することこそ彼らの使命となった。こうして内乱が英国の力によって鎮定されたのちは、清朝の王座にしたがって農民に対する封建的収奪の権力地位は、ひとえにただ外国資本主義国の監視的支持の下に存続せしめられたのである。

2. 日本
 同じ矛盾の解決は、日本においては反対の道を拓いて進展した。日本は戦争を経ずして世界市場に自己を開放し、日本の清朝たる幕府は外国の力によって存置せしめられる代わりにかえって内部的に「明治維新」によって打倒され、維新政府はその後の資本主義日本の隆運のための政治的担当者として発達した。こうして日本における封建国家から資本主義国家への転換は、それ自身として解釈されうるかのごとき外観を呈する。そして実に明治維新の注釈をめぐって、この種の無数の理論が提供されつつあるが、幕末黒船渡来をもって始まる封建的生産関係の現実の急激な分解過程を、全然見ないとしないまでも、たかだか一つの助成的要因の地位において顧みないところが共通点としてあげられることがある。明治維新は決して単純なるブルジョア革命ではない。ブルジョア革命をいう限りにおいて、それはようやく明治4年に至って上から着手せられ、6年―14年に下から継続せられて出発したが、今日に至るも未だ決して完了されてはいない。世に「王政復古」と呼ばれている政治的変革過程は、和親条約締結前後から政治化しはじめて、7月の「版籍奉還」をもって完了するが、これは本質何らのブルジョア革命でもないのである。それは幕府300年間の純粋封建国家の体制から封建主義の最後の形態たる絶対王政への転換であり、この転換をもたらした諸矛盾こそ幕府300年の胎内に求めなければならない。広い意味の明治維新とは、この2個の過程の二重写しであり、そこに維新史研究のすべての困難さは原因する。

3.続き
 「鎖国封建国の資本主義的市場への開放」という同一の条件がこの二国において異なった発展を示した根拠を次のように分析する。
 (1)世界市場は歴史的に西から拓かれたことのために、印度は第一の足場であり、支那は第二のそれであり、日本は第三の目標たるべき事情にあった。英国は阿片戦争によって支那市場の地位を確立するまでは、日本に主力を注ぐ余力を有しなかった。阿片戦争の勝利と支那の開港とは、日本政略の前提条件の成就を意味し幕府は畏懼してただちに文政打払令を緩め天保薪水令を発して、排外主義政策を一変し、ようやく攘夷派をその政敵として積年の内部的対立に点火したが、他方で英国は、今度は市場確保のための武力を、長髪賊の乱の鎮定、および清朝の抵抗に対する闘争のために費やさねばならず、日本のために手を伸ばす充分の暇を与えられなかった。このおよそ15年間の日本開港の遅延は、すでに天保外交政策一変以来の内部的矛盾の政治化を促進するにあずかって力があった。こうして1858年の幕府の無抵抗的開港は、ただちに政治的内訌の爆発であった。
 (2)だが、さらに肝心なことは、支那におけるは、何者にも牽制されぬ一国の砲火によってであったが、これに反して日本に迫ったときの近代的権力は、もはや数か国の相互牽制によってはなはだしく弱められたそれであった。さらに1848,49年の全ヨーロッパの革命と反革命との暴風は、欧州列強間の無限の葛藤を編み出し、これに反して1861年以後のアメリ南北戦争は、欧州列強の葛藤に米大陸を結び付けた。こうして53-58年の日本開港の以前と同じく以後においても、諸国間均衡の条件は、我が国にとって幸運であった。
 (3)だが、安政5年の開港は、日本の封鎖的国民経済の単位の狭少さのゆえに、はるかに激しいテンポを持ち、結果的に封建的生産関係の崩壊過程をもたらした。輸入関税は値切り倒されて、実際上始めから5分程度のものであった。開港所は3港で、相手は世界の支配的資本主義国たる5か国であった。長崎一港で厳重な監視と制限の下に続けられた対蘭支貿易と異なり、ここに経済的鎖国主義が大きく崩れ、生産上の変革がいやおうなしに進行せねばならない。それによって生産物の流通圏が変革され、旧来の内地市場の需要が拡大される前に底なしの国外市場の需要が内地市場に結び付けられる。輸出が超過し、手工業的=小農的生産方法による茶、生糸等を首位とする生産物がいかなる日本人よりも先んじて大量的に「洋行」し、ために内地市場における当該産物の枯渇が生じ、一方物価高騰による純消費階級の貧困化を激成し、他方高まれる消費が生産を生産せんがために、旧来生産方法及び様式の変革を必然化する。重要輸入品は毛織物、綿糸、綿織物であり、砂糖、鉄がこれに続いた。これらの輸入品の旧生産方法に対する破壊力はより決定的であった。このような直接生産に関する影響のほかに、金貨の流出が一時的にではあるが衝撃を与えた。開港後一両年の間に大約一億万円の金貨が、一物の商品を媒介することなく流出したのである。これは幕府が財政に窮して貨幣改鋳を続けるとともに、金銀両本位制をとり、開港当時は比価金一銀六となっていた。当時欧米の比価は金一銀十五半、これによって外国人はメキシコ銀により日本銀と交換し、日本銀比価により換金したものをどんどん国外に持ち出して巨利を占めたのである。幕府は狼狽して金貨を改鋳して比価を改めてようやく持ち直した。
 (4)こうして安政5年以後日本に固く結びつけられた世界資本主義のため、(3)に見たような激しい封建的生産方法および生産関係の根底からの崩壊過程が国内に進展し始めたが、(2)に述べたところの諸外国勢力の均衡状態のおかげで、この経済的打懐過程が支那のように外国の統一的武力干渉作用する不幸を招致しないで済んだ。その結果政治的には、(1)で見たところの所与的内部対立が、いっさいの国内的国際的問題を戦術に利用しながら、ほしいままに発展していった。開港以後の客観的新情勢が要求するところの政治的変革は、外国支配の下に行われようと独力で行われようと、およそ国内市場開拓の障礙をなすところの封建的財政関係および支配体制の払拭ということであらねばならない。

 しかるに外国勢力の均衡による政治的無力化があり、国内旧ブルジョアジーの転換期の混乱があるとき、新情勢によって課せられたもののごとき政治的変革の担当者は、旧封建的支配者団相互の軋轢の中から啓発され転生しなければならなかった。時世を洞察すべく俊秀な逸材を供給しえた諸藩軽格武士の選良から成る維新志士団に政権が掌握され、方途に惑っていた旧商業=および高利貸ブルジョアジーをいちはやく動員して最後に出現した絶対王政政府こそ、旧制度解体の火中から生まれた不死鳥であり、この政府が、動員した全力を集中して、自己の現実の母胎であった旧制度の全織物を廃棄すべく決意したき、初めてここに開港以降醸成された経済的変革過程が、その執行者を、国外ではなく国内に見出し、資本主義日本の「帝国建設」の第一歩が祝福されたのである。

(コメント)
 鎖国封建下であった日本が資本主義的市場へと開放され、発展していく過程を、同じく中国でのそれと比較しながら分析することで、日本は内部的に「明治維新」によって旧体制を打倒し、旧制度解体の火中からうまれた不死鳥のごとき絶対王政政府が、政治的・経済的変革過程の執行者となったことが最大の特徴であると考えた。

(記:経済学科3年 久保田菜摘)