明治維新と自力工業化(8)

石井寛治『明治維新史』より第9章「ブルジョアジーの誕生」のまとめを掲載します。

 1. 経済自力建設の路線

貿易赤字の累積
  幕末の貿易収支が黒字つづきだったのと反対に、明治初年の貿易は連年大幅入超であり、赤字の累積額は、当時の日本経済の実力からみて大変な額に達した。貿易赤字は、明治初年の日本経済を次第に難局へと追いつめつつあった。
  輸入品では、繊維製品や砂糖などが増加している。また、特に明治3年には米穀、8年には兵器・汽船の輸入が、それぞれ凶作と台湾出兵が原因で増加している。さらに、在来綿織物業の強敵である輸入綿織物の増加が明治6年で止まり、代わりに綿糸輸入が増加している。これは明治7.8年、世界恐慌により単価が急落した輸入綿糸を使い、在来綿織物産業が力強く再生を始める画期をなしている。
  他方、輸出品の中心は生糸と、茶の2品であった。

・外貨排除の路線(しのびこむ外資) 
  貿易赤字の累積は、外国製品に対する購買力の減退をまねいていた。こうした状況を打開するために、来日した外国人が異口同音に唱えたのが、外貨導入による経済建設だった。また、同様に、鉱山その他への外国人直接投資を認める必要性も説いた。世界的な常識からすれば、資本蓄積の乏しい後発国が工業化を目指そうとする限り、外貨依存は当たり前のことであった。江戸時代の経済的遺産ともいうべき金銀貨の大部分を失った危機的状況ともなればなおさらだ。
 ところが、大久保ら日本政府首脳の方針は、外貨をむしろ排除して経済の自力建設を図る、というものであった。明治3年と6年にロンドンで外債を発行した後日清戦後にいたるまで、政府による外債の発行は全く行われなくなる。外国人による直接投資についても、居留地内以外では認められていなかった。
  欧米人が好んで狙う鉄道建設と鉱山開発のうち、鉄道は、政府が自ら外債を募り、外国人技師を雇って建設する形で、直接投資を排除した。鉱山については、政府は鉱山心得書を頒布して、鉱山経営は日本人に限るという世界的に異例の本国主義を打ち出した。政府がこれらの外貨投資を懸命に阻止しようとしたのは、この一点が突破されると外商の内地通商権までもが、全面崩壊しかねなかったためであろう。内地侵入を試みる外商は、豊富な資金力を持つだけでなく、領事裁判権に守られていた。このような強力な外商が内地へのめりこめば、劣弱な日本商人が国内流通機構からもしめだされる恐れは、十分にあった。
  しかし、外貨排除を目指す政府規制にも関わらず、資金不足の国内経済界にはさまざまな形で、外資がしのびこんだ。もっとも、外資といっても金融の世界的中心地ロンドンにおける募債は、前述の2回の国債だけで、投資の主体は開港場に上陸した外国商社や銀行である。

・民業育成の政策
  政府は、外貨を排除しつつ、世界市場に伍していける経済の自力建設を行った。内務省勧業寮を中軸とする新政策の特徴は、輸出振興・輸入防遏を目指す民間産業の振興であり、従来の工部省による官営事業中心の政策から大きく転換した。
  工部省官営事業の中心は、鉄道建設から鉱山へと移った。他方、内務省直営事業は、農牧業と農産加工が主柱をなし、内務省統轄下の府県に設けられた勧業場などをつうじて、国内最高水準の技術伝播が急速に進んだ。これは、統一国家になったからこそ可能であった。政府が民間会社や個人に対して、さまざまな形で資金の貸し付けをおこなったこともこの時期の特徴である。

2. 諸政商の浮き沈み

 ・政府の殖産興業政策と結びついてもっとも大きな利益をあげたのは、いわゆる政商であった。政商のなかには、三井・小野・住友のように旧幕時代からすでに巨大な蓄積を成し遂げていたものもあれば、三菱・五代・安田・古河・大倉のように、幕末維新期に急速に頭角を現して致富したものもある。いずれにせよ明治初年ないし明治前期は、政商としての活動の最盛期であり、ある者は経営の多角化を進めてやがて財閥に成長転化していくが、ある者は経営に失敗して没落の道をたどった。政商が活動していた当時彼らは、「御用商人」などと呼ばれ、批判されることもあった。

3. 製茶農民と蚕糸農民

・広がる茶樹経営(農民の茶業経営)
明治初年に停滞・衰微する生糸・蚕卵紙貿易と対照的に輸出をのばしたのが製茶貿易であった。その輸出先はアメリカに集中し、横浜港と神戸港からサンフランシスコへ送られる大量の緑茶の輸入によって、アメリカはこの年初めて日本にとって最大の輸出相手国となった。加えて、明治12年には対米生糸輸出も大きくのび、その地位は安定する。アメリカ経済は、南北戦争以来の急速な発展により1880年代をつうじて工業生産額がイギリスを抜き切るが、そうしたアメリカ経済としっかり結びつくことで、日本経済の発展も可能となった。
  茶貿易の盛況に刺激され、茶樹の栽培を試みる者が各地で続出した。茶業経営については、雇用労働者をもちいたブルジョア的経営への発展を強調する大経営説と、大経営事例は、士族授産による開墾か技術伝習のためのもので早期解体の運命にあり、茶業の発展は小経営が担ったとする小経営説が存在する。しかしいずれにしても、雇用期間が短期であるという特徴が存在し、このことが本格的なブルジョア的発展をとげることを大きく制約していた。

・製糸ブルジョアジーのそう生
  製茶農民の状態と対照的に、養蚕と製紙を営む蚕糸農民のなかからは、中小の製糸ブルジョアジーが続々と誕生した。
  初期の有力器械製糸場への小野組の資金面での関わりは絶大であり、明治7年の同組の破綻はそれらに甚大な被害を与えた。だがそのことは逆に見れば、製糸業の「下からの途の発展」への障害が消え去ったことをも意味していた。明治8年以降、急増する中小の器械製糸場は、その必要資金を政商小野組にあおぐ強力な競争相手に悩まされる心配がなくなったのである。
 
4. 外圧下の綿業と糖業

 ・日本においては、「世界の工場」イギリス製の綿布商品は威力を発揮できなかった、という説が日本経済史学界ではとなえられている。輸入イギリス綿布と日本国内で生産されていたものとでは品質が違い、競合することはなかったのだ。
  また、機業地においては、安い洋糸が入ってくると、流通をにぎる商人による上からの機業地再編が進んだ。再編に成功した機業地は発展し、綿織物業は存続・拡大を遂げた。だがこの「成功」の裏には、下からの小生産者型発展の挫折があり、それと不可分のかたちで形成されつつあった市民社会関係(共同体と権力から自立した諸個人相互の関係)の成長停止があったのである。「工業化」が進んだ割には「民主化」が停滞するという後進資本主義国の困難な状況の基礎構造がこうして生み出されていく。

・繊維製品に次ぐ重要輸入品砂糖の主要積出地は、台湾と中国南部であった。世界市場への編入は、欧米諸国とアジア諸国との貿易だけでなく、アジア諸国間の貿易の開始・拡大を意味したが、砂糖輸入は、その典型的な例であった。日本の在来糖業は、香港のイギリス系機械製糖業に敗れるより前に、相対的に進んだ中国在来製糖業に敗れつつあった。
 このように、従来しばしば一口に「西洋からの圧力」と言われてきたことも、その中味は、それほど単純なものではない。それは在来産業を必ずしも絶滅させなかったが、存続した在来産業のあり方を大きく変化させた。

感想
 明治初年度、財政難に陥りながらも日本政府が外貨に頼らず経済の自力建設を試みたことは、その後に植民地化されずに、欧米の列強諸国と肩を並べるにあたり、とても大切なプロセスであったと感じた。

記:音辻裕太(公共マネジメント学科3年)