明治維新と自力工業化(7)

石井寛治『明治維新史』より第7章「文明開化の光と影」のまとめを掲載します。

 1.欧米外交とアジア外交
・明治政権の出発
  明治4年(1871年)7月の廃藩置県により中央集権的な統一国家としての明治政権が誕生し、翌8月にかけて中央政府の改革が行われた。最高決定機関である正院は、太政大臣三条実美西郷隆盛木戸孝允板垣退助・大熊重信の薩長土肥出身四参議が担当した。また、4年11月には県の統廃合がなされ、3府72県1使(北海道は開拓使)となった。この時、一般的に地方長官にはその任地の旧藩出身者ではない者が任命され、その顔ぶれは一新し、この傾向は時とともに強まった。さらに、年若い天皇を新国家君主にふさわしくするべく、女官の総罷免・精選等、宮中の改革もすすめられた。

岩倉使節団の派遣
 明治4年1871年)11月12日に、右大臣岩倉具視を全権大使、木戸孝允大久保利通伊藤博文山口尚芳を全権副使とする46名の大使節団が、華士族留学生59名(うち女子5名)とともに、サンフランシスコに向かった。使節団の目的は、翌年から可能となる不平等条約の改正の本交渉ではなく、その条件づくりのための欧米諸国の制度・文物の調査と、条件が整うまで交渉を延期する旨を伝える挨拶との2点である。任務内容の割にやや大げさすぎるメンバーなのは、条約改正が明治政府にとって存在をかけて取り組むべき課題であったことに加え、大隈の隆盛を恐れた大久保や岩倉らの政治的かけひきの結果でもある。

使節団の誤算と体験
 サンフランシスコに到着した使節団一行は行く先々で大歓迎を受けたため、これを条約改正への好機だと錯覚し、H・フィッシュ国務長官を相手に交渉がはじまった。大久保と伊藤に改正交渉権が明示された新たな委任状を日本にまでとりに帰らせたが、二人が戻ってきた頃にはこの交渉は困難かつ不利であると、打ち切りを決定していた。それは、片務的な最恵国条項が各国との条約にあることに、このときになって気づいたからである。ここに彼らの外交的未熟さがよくしめされている。
 条約交渉を諦めたかわりに、彼らはヨーロッパ各国の制度・文物の見学と調査に熱中した。また、ドイツでは宰相ビスマルクと会見し、国力・武力を振興してはじめて大国と対等の交渉ができるようになる、という演説を聞かされ衝撃をうけた。日本もプロシアが小国から大国へと発展したコースをたどらねばならぬ、との思いが大久保・木戸・伊藤らの胸中に刻みこまれたにちがいない。

・対露、対中外交
プチャーチンとの条約以来、日露両国雑居とされてきた樺太(サハリン)は、慶応2年(1866年)2月にペテルブルグで結ばれた仮規則でも日露両属とされた。現地では、両国民間の衝突事件が続出したため駐日ロシア代理公使ビューツォフと副島種臣外務卿のあいだで、樺太問題の交渉がはじまった。しかし、明治6年10月政変で副島が辞任したことで、この交渉は中断することになった。
中国との間には、明治4年に対等の性格をもつ日清修好条規を締結した。最大の狙いは、朝鮮の宗主国たる中国と同格の国際的地位を得ることで、朝鮮に対して優位な立場になることであった。一方、台湾に漂着した琉球船の乗員が「生蕃」に殺害される事件がおきると、中国側は、「生蕃」は王化に服さない「化外の民」だとのべたことが、日本側での「征台」「征韓」論を沸騰させる契機となった。

・「征韓」への胎動
 明治元年12月に、朝鮮に対して王政復古の通告をしようとしたところ、その書契(書類)のなかに、明治天皇を中国皇帝と同様に、朝鮮国王の上位におく「皇」と「勅」の用語があったため、朝鮮側はこれを受理せず、用語の改修をもとめた。しかし、維新政権の首脳とくに木戸孝允は早くから「征韓」を唱えており、朝鮮側の要求に応ずることなく、中国との条約締結を先行させることにより事態を乗り切ろうとした。
 その後、日本が密貿易をしはじめたことに対して、朝鮮側が「無法之国」という文言を使用したことについて審議が求められたが、正院で「征韓」をめぐっての議論が沸騰したのは、留守政府の急激な近代化政策にたいする国内での反発という内部要因によるところが大きい。

2.文明開化の諸相

・土地緊縛の廃止
 幕藩制社会は、領主が百姓の自由な移動を禁止し(土地への緊縛)、年貢をとるという関係を基本としていた。維新政権は、「五榜の掲示」の第5札や戸籍法の新鑑札制度で、あらためて人々の自由な移動を禁じようとしたが、これは廃藩置県とかみ合わず、どちらも撤廃された。
廃藩置県直後には、さまざまな封建的制限が次々と撤廃され、農民は土地の利用や処分の自由を得た。しかし、土地を利用して得た収益を、農民が自分のものとして獲得できるか否かという肝心な点がはっきりしておらず、農民の土地私有権が十分に保障されたわけではなかった。

・上からの四民平等
 士農工商身分制度を撤廃する布告も、廃藩置県の直後にあいついで出され、これまで身分をしめす象徴であった髪型・服装・帯刀の自由が認められた。これらは、特に脱刀は士族の身分象徴の放棄にほかならなかった。
また、丁髷頭から散切頭への転換は、地方官による強制をふくんだ奨励が行われた。愛知県で、邏卒(巡査)が往来で丁髷の者を発見しだい、髪を切らせた事例が報ぜられており、これは、四民平等なるものが、政府の必要によって上から押し付けられた性格のものであることをよくしめしている。この背景には、欧米の近代軍隊に対抗するため、武士だけでなく全員が平等に鉄砲をもつ軍隊をつくるという軍事改革の国家的必要性があった。

・部落解放令の発布
 維新政権発足後、明治2年4月の公議所において部落解放の議論がなされ、圧倒的多数で可決された。民部省内部でも議論がはじまり、特に大江卓が4年1月と3月に提出した解放建議は、たんなる賤称廃止にとどまらず、部落民のための勧業政策も含む優れたものだった。
 しかし、4年8月の解放令は、四民平等政策のいわば仕上げとしての性格が強く、そこには、大江建議にみられたような、国民の身分意識や職業観念の変革をいかにおこなうかという配慮はなく、一方的な理念の宣言がなされるにとどまった。
さらに、当時は、四民平等が唱えられながらも、華士族は家禄を給付されるなどの特権を有しており、平民はその下に位置していた。部落民の平民籍への編入が、当初、平民からのはげしい反発を招いた一因は、こうした身分制度全体の撤廃の不徹底さにあったといえる。
部落解放令が実質的な解放への意義をもつには、部落解放運動の側が、これを武器として活用しうるまでに成長することが必要であった。そうした事例は、自由民権運動の高揚とともに数を増やしていった。

・暦と時計
 封建的、身分的束縛が徐々にではあれ消滅するのにともない、西洋近代の文明が日本社会へ流れ込んできた。太陽暦と定時法の採用もその一つで、国民の日常生活のリズムを大きく変化させていった。
 太陽歴の採用は、諸外国との外交・通商がさかんになったため、旧暦の太陰暦では不便になったというのが理由である。また、江戸時代の農耕中心の社会では、季節によって昼と夜の一時の長さが変化する不定時法でも問題なかったが、明治にはいってから、1日を24等分した定時法が官庁や鉄道時刻表に使われはじめ、明治6年からは洋時計が実用品へと転化していった。

・銀座煉瓦街
 文明開化を空間的にもっとも凝縮したかたちでしめすものとして、よく指摘されるのが東京銀座の煉瓦街である。明治5年(1872年)2月の大火を機会に、政府は東京を不燃都市へ改造する計画をたて、のちの銀座八丁の大通りに煉瓦造りの建物が立ち並ぶ街を建設した。ロンドンとパリをまねたしゃれた街並みは、綿絵をつうじて全国に伝えられ、新聞社等に大げさに賛美された。
 しかし、銀座煉瓦街を少し離れると、無人のままに放置された武家屋敷がひろがっており、得意先を失った商工業者が苦しんでいた。また、煉瓦街自体も、住民にとってけっして住みよい所ではなかったらしい。
 西洋物質文明を吸収しようという積極的姿勢がみられたが、政府主導型のこうした動きは国民に多くの犠牲を強いるものであった。

・開化のイデオロギー
 西洋文明を次々と導入する独走気味の政府に、民衆は圧倒されそうな様相が確かにみられた。明六社に結集した福沢諭吉啓蒙主義者は、そうした政府と民衆の間のギャップを埋めるべき啓蒙活動を精力的におこなった。
 これにより、経済の世界では、福沢諭吉の『学問のすゝめ』に感動した人々等が、民間産業発展のリーダーとして活躍しだし、産業革命へのコースの基盤ができていった。日本は幕藩制成立以来、現世的利害が至上視されており、西欧のような宗教改革が必要ではなかったことも経済活動の活性化がうまくいった一因である。
 これに対して政治の世界では、うまく事が進まなかった。それは、啓蒙家が、民衆の政治的主体性を喚起しながらも、実際にはかれらを愚民視する態度がぬけきらず、また、形成されつつある近代天皇制国家への批判を、ほとんど持っていなかったからである。
 民選議院設立建白を契機に、自由民権運動が台頭しはじめると、時期尚早論でこれに反発したが、さらに政府が讒謗律・新聞紙条例を公布すると、政府との対立を恐れて機関誌『明六雑誌』を廃刊とし、政治の世界から姿を消した。

3.留守政府内の政策対立

・金本位へ向けて
 明治4年の新貨条例は、純金1.5グラムを一円とし、従来の1両と等価とすることを定め、本位金貨の鋳造が開始された。しかし、当時の東アジアでの貿易通貨は銀貨であり、貿易の便宜上、一円銀貨の通用をみとめたため、事実上は金銀複本位制であった。
 さらに、この本位制は大量の不換紙幣が存在する限り不完全なものだった。最初の円単位紙幣である大蔵省兌換証券や、開拓使兌換証券は、太政官札や藩札などの整理統一のために発行された新紙幣とよばれる不換紙幣と交換される過程で後退してしまう。
 しかし、大蔵大輔として留守政府財政の総責任者であった井上馨は、5年6月に準備金規則を定め、ためこんだ資金をその基金とし増殖をはかった。さらに同年11月には国立銀行条例を制定し、不換の政府紙幣を引き上げる構想があったが、これは世界的な銀貨下落がはじまったために、発行された銀行券がただちに金貨兌換を請求されて流通できず失敗するが、井上の兌換制樹立への努力の一環であったことは確かである。
・家禄処分案の挫折
 井上馨も諸省が推進する近代化政策の重要性は十分にわかっていた。それゆえ大蔵省では、毎年の支出の3分の1を占める華士族への家禄支給を整理、削減する計画を急いで作成して、近代化政策の財源創出をはかろうとした。
 だが、この処分案は、アメリカで大使岩倉具視や副使木戸孝允から、さらには駐米中弁務使森有礼からの反対を受けた。そして留守政府内でも井上案への批判が強まり、当初計画は使節団帰国後に再検討されることとなった。

・財源ぬきの学制
 政府が発布した学制は「~家に不学の人なからしめん事を期す」という格調高い理念をかかげつつも、そのための財源はほとんど用意せず、民衆にあたらしく負担をおしつけるかたちで出発せねばならなかった。また、初等教育の経費はもともと受益者負担を原則としており、小学校教育を支えたのは、幕末以来、広範な普及をみせていた寺子屋・私塾の活動であった。二万をこえる小学校の大半は寺子屋を合併、改造したものであり、民間の大工が洋風建築をモデルに設計した個性的な校舎もあった。政府の強制だけで説明できず、民衆の解放されたエネルギーの発露としても見るべきであろう。

・徴兵令の制定
 陸軍大輔山県有朋が中心となって仏独式の徴兵令制定の準備を進めた結果、明治5年11月28日に徴兵の詔書太政官告諭だされ、その半月後の翌6年1月10日に徴兵令が発布された。
 詔書・告諭と徴兵令が半月のズレをもって発せられた裏には、陸軍省原案は、服役の細かい差異を設けることにより、士族中心の徴兵軍団をつくるものだったが、四民平等論からする批判をうけ、大修正を余儀なくされたという事情があった。
 その結果、主として農工商向けに規定されていた免責条項(一家の主人とその後継者等)が全体に適用されることとなり、政府は鎮台兵不足に悩まなければならなかった。
 さらに、旧組頭格の中農層による一揆が続出し、徴兵令・学制・部落解放令など、
新政権全般への不安と不信が爆発した。

・司法省対大蔵省
 大蔵省との対立がもっとも激しかったのは江藤新平司法卿のひきいる司法省であった。明治4年7月に設置された司法省の権限は弱く、東京府以外の府県では大蔵省監督下の地方官が民事裁判を行っていた。そこで江藤は、全国の裁判権を司法省のもとに統一するため各地に裁判所を設置しようとした。結果、地方官を管轄する大蔵省との間の権限争いがうまれてしまった。
 司法省の予算請求を大蔵省が大幅に削減したことに、江藤は抗議して辞表を提示した。すると、それに驚いた三条実美はこれを却下し、正院による予算の再検討を行った結果、井上大蔵大輔(たゆう)と井上の右腕である渋沢栄一は辞表を提出し、免官となった。
江藤司法卿の職をかけた強行策が成功して、このあと裁判権の司法省への集中化が進んだ。

4.明治六年政変の実像
 
西郷隆盛の真意
 明治6年1873年)8月17日の正院は、参議西郷隆盛を朝鮮へ使節として派遣することを決定した。
 西郷がみずから使節をかってでた真意をめぐっては、従来からさまざまな推測がなされており、近年では西郷は「征韓」即行論者ではなく、真意は平和的交渉による朝鮮との修交にあったと主張するものもある。
 筆者の意見としては、西郷が「征韓」論にたっていたことは否定しがたいが、西郷自身、使節派遣を契機とする開戦の危険をしりつつ、あえて使節派遣に固執したのは、留守政府の急激な「開化」政策にたいする士族層の反発を外にそらすためだったとしている。

大久保利通の立場
 帰国した大久保利通は、何を考えて西郷遣韓に反対したのであろうか。大久保が「征韓」そのものに反対でなかったことは事実であるが、だからといって、留守政府の中心人物にのし上がった江藤新平への反感から、使節派遣反対の立場をとったとする説が正しいとは思えない。
 大久保が親友の西郷ときびしく対決したのは、やはり使節派遣が開戦に直結するという判断をもっていたためだと、すなおに理解すべきであろう。
 正院で破れた大久保は三条太政大臣に参議辞任を申し出、岩倉も辞意を表明した。政府の完全分裂という未曾有の危機直面し、三条は精神錯乱におちいり卒倒する。そして大久保の宮中工作が功を奏して太政大臣代理に岩倉が任命された後、天皇は岩倉の意見どおりにせよ、との勅書をさずけた。正院決定を天皇の権威をもちいてひっくりかえすという大久保・岩倉の逆転工作が、みごとに成功したのである。
 こうして、西郷・板垣・後藤・江藤・副島の五参議が辞職し、明治六年の政変は、最終的には大久保ら使節団のメンバーによる留守政府首脳の追放というかたちで終わったのである。

記:竹田洸誠(国際商学科3年)