石井孝『明治維新と外圧』

石井孝『明治維新と外圧』(吉川弘文館、1993年)の一部を読みました。「Ⅰ 明治維新史概観」のまとめを掲載します。

 はじめに
 1986年8月に雑誌に掲載された「日本封建制解体の特質」という報告は、近世史専攻者のみにより書かれた報告らしく19世紀前半以後の幕末・維新激動期の具体的歴史過程がほぼ視野に入っておらず、日本近代史の報告として同論文の研究水準を世界の歴史学研究者に示すことができたか疑わしい。
 同報告はまず日本における幕藩制国家解体過程の特徴として①幕藩制国家否定の社会運動として世直し運動、②幕藩制国家否定の政治運動として尊王運動、③幕藩制国家否定の民族運動としての攘夷運動の3つを並列して挙げるが、①は民衆の反封建闘争、②③は①により封建的危機を痛感する支配階級内部の動きと、①と②③で全く次元を異にする動きなのだ。しかも尊王論攘夷論幕藩体制の否定を目指す運動ではなく、これをもって2つを幕藩体制否定運動とするのは王政復古史観に通じるものである。また同報告は尊王運動を日本における反封建政治運動としているが、根拠も無しにそう述べると近代天皇制国家が大衆的基盤や国民的支持の上に成立したとみられる危険が大きく、ネオ皇国史観に利用される恐れがある。
 他にも同報告は日本の絶対主義が天皇制国家としてのみ成立するとみるが、筆者は将軍による大君絶対主義の途も存在しただろうと認める。この「二つの途」の肯定こそ維新の政治史を王政復古史観から解放する方法である。二つの途は、薩英戦争や下関戦争を経た薩長の絶対主義化が天皇制絶対主義と繋がり大君絶対主義と対立して生まれた。かの報告は維新史の成果を取り入れなかったことで、幕藩制国家解体過程の特質を戦前と同じ王政復古史観とほぼ同じものにまで陥らせてしまったと言える。

明治維新の歴史的前提
 明治維新とは、幕藩制国家から天皇制国家への転換を画する大きな改革であるが、この国内的な要因として、農業生産力の発展に伴う農民の自立による農民の富農と貧農、ひいては地主と小作人への分解を要因とする本百姓制の解体と、農民の商品生産と結びつく在郷商人の進出による都市特権商人の商品流通への掌握力の弱体化が挙げられる。このような幕藩制の基礎構造の解体に伴う一揆などをうけ幕府・諸藩は改革を断行し、これに成功した西南諸藩が幕末に台頭することとなった。
 次に、国際的な要因として主にイギリスの思惑がある。ペリーの開国により日本を資本主義の市場とすることに成功したアメリカが南北戦争に巻き込まれることなどもあって、資本主義世界の主導的役割のイギリスがその後の対日外交の主導権を掌握したのだが、軍事力よりも商品の力での世界支配を理想とした当時のイギリスは商品の売り先の1つたる日本市場を拡大するために日本に安定した統一政権ができることを望み、歴代駐日公使は本国の意向を反映した政策を展開した。これは明治維新に対する追い風となった。

2 政局の激動
 日米和親条約以来、幕府・諸藩の中に開国政策と幕藩制的政治体制の変革を志向する一橋派と、あくまで幕藩制の存続を志向する南紀派が対立し、南紀派である井伊直弼の政権掌握により、老中阿部正弘をはじめとする一橋派が進めてきた開国政策・改革政策が挫折し、幕府は指導力を失った。桜田門外の変の後、徳川慶喜松平春嶽らの政権は、幕府のお膝元たる江戸に政治を集中させるための最重要政策である参勤交代制を事実上廃止し、ここに中央権力としての幕府を自ら放棄した。この時期に政治の舞台に登場した長州を中心とした尊攘派1862年末から過激派公家を通じ朝廷を掌握、朝命で将軍を上洛させることで政治を支配しようとしたが、8月18日の政変で京都を追放され、さらに禁門の変により幕府の追討を受けて有力勢力としては壊滅してしまった。また、尊攘派の京都追放のあとは公武合体派の雄藩連合政権が成立したが、幕府と雄藩の対立により短期間で解体してしまった。公武合体と尊攘の2つが行き詰ったが、これらに変わる勢力は出現せず、政局は混迷していた。

3 幕府と討幕勢力との対立
 薩英戦争・下関戦争がこの混迷を破る契機となった。特に後者は資本主義列強と封建支配者の対立により起こった戦争である。下関攻撃の計画を立てたイギリス公使オールコックはこの攻撃により日本の全封建支配者に攘夷が不可能なことを思い知らせた。この2つの戦争により両藩はイギリスと接近し、対外貿易へ進出し始めた。幕府による長崎を拠点とする対外通商の独占が徳川幕府を長期政権たらしめたことを考えると、これが破られ諸藩が直接対外貿易を始めたことは諸藩を幕府から独立させる要因になった。またイギリスは当初幕府を開国派、諸藩を尊攘派とみて幕府を支持していたが、諸藩の排外運動が幕府の貿易独占への嫉視から出ると考え、諸藩の貿易参加に政局安定の途を見出した。この政策の変化も薩長の幕府からの自立に有利に働いた。
 下関戦争をうけて幕府も開国姿勢を明白にし、親仏派が幕政を握ることとなった。フランス公使ロッシュが幕府支持な態度を強めたので、幕府の強化をフランスの援助に求めたのである。ロッシュは横須賀に製鉄所を建て、軍事援助を強化し、経済関係を緊密化させた。この援助をもとに幕府は幕府の絶対主義化を目指した。長州藩が薩摩経由で武器の供給を受けたことから薩長は急速に接近し、討幕勢力として連合した。その権威付けとして尊王を掲げ、ここに政局は大君絶対主義を目指す幕府と将来の天皇制絶対主義を目指す薩長の対立として展開される。フランスは前者を支持していたが、イギリスは後者を直線的には支持しておらず、中立の姿勢だった。ただその中立が長州側に有利に運用された。
 1866年7月に両者は激突したが、幕府軍は近代化された長州軍に敗北した上、この影響で米価が暴騰したことによる一揆を受けて長州と停戦、親仏政策を強めつつ態勢の立て直しに努めた。将軍慶喜はロッシュの助言を受け大君絶対主義の改革を進めたが、フランス本国で外相が更迭、後任がロッシュを支持せずとん挫した。
 再び薩長と幕府との衝突が迫った時、公議政体論をひっさげた土佐に大政奉還を勧告された慶喜は己の政治路線を推進するためこれを受け入れた。薩長に討幕の口実を失わせ、大名会議の合意の元大君絶対主義を目指そうとしたのである。これにより薩長との対立は激化し、薩長は京都に軍隊を送りクーデターを決行、王政復古の大号令が発せられ、幕府は廃止された。その後徳川を一大名に落とすべく辞官納地を慶喜に要求した。

天皇制国家の成立
 これに憤激した慶喜は大軍をあつめ京都に進軍し、ここに戊辰戦争が始まった。将来の絶対主義政権を狙う天皇政府と徳川政府の戦いとなったこの戦争は天皇政府の勝利に終わった。イギリスは江戸開城のしばらく後、他国も会津五稜郭陥落を経て天皇政府を承認し、これを日本の統一政権とした。
 この政府は藩制否定の論理を内包する超藩的政府で、封建制度廃止や中央集権の理念があった。このあらわれに版籍奉還がある。これにより藩主は天皇の地方官となり、領国は単なる地方行政区となった。さらに禄の削減、華族・士族の制定、諸藩の流通機構の構築などを経て中央政府の統制は一層強まった。こうして諸藩は藩制を解体する改革を強いられ、自主的廃藩を行う所もあったが、倒幕の中核たる薩長は対照的なコースをたどった。山口県は従来の軍を解散し、その中の精鋭を常備隊として編成し御親兵にしようとした上、これに反する一揆を鎮定し廃藩への途を推進した。鹿児島県では西郷を首領とする「士族国家」が建設され、中央から独立する傾向を強めた。何とか西郷らを呼び戻し廃藩の即時断行が合意に至ったが、政府は西郷ら士族反対派を内部に抱え込み、明治6年の政変の要因となった。

明治維新の完了
 廃藩置県により天皇制国家は成立したが、さらに幕藩制の基礎を解体すべく政府は徴兵令、地租改正、秩禄処分に臨んだ。徴兵令は長州出身者によって推進された。士族中心の志願制(壮兵制)を取りやめ徴兵制を採用すべしとの山県有朋の意見に基づく徴兵令は壮兵制を唱える薩摩出身者の強い反対を受けたが、山県は兵卒は百姓から採っても士官はみな士族であると説得した。当時の徴兵制には広範な兵役免除の規定があり、おもに農家の次男三男が徴兵された。このことから兵役は徭役の意味を持つとされる。
 次いで地租改正が交付された。すでに江戸後期には農民の商品生産の発展により事実上の農民的土地所有が形成されつつあったことを受け、政府は作物の自由栽培と土地の売買を許可し、土地所有者に地券を交付した。このような一連の処置の上に地租改正条例は交付された。これにより石高による物納に代わり地券面の地価の3%を地租として金納させる事となった。この地租は、利子を生む資本に対する租税という近代的租税の外観を呈するが、収入を減少させないという政府の方針もあり従来と比べ必ずしも負担の軽減とはならなかった。つまり、地租改正は封建時代の生産物形態から貨幣形態への転化と言える。しかし地券が小作人には与えられなかったことから地主制を発展させる契機にもなった。さて改正のため地価を決定するとき官憲は農民の申告する反当収量を退け天下り的に収量を押し付けた。異議は武力をちらつかせ黙らせた。そのため各地で激しい農民闘争が起こり、2年後には地租を2.5%に引き下げた。
 蔵米の受給者たる武士の封建的特権を消滅させるにはそれに加えて秩禄処分を必要とした。廃藩後も政府が武士に支給していた米高表示の俸禄を金禄に、そして金禄公債に切り替えることで一挙に秩禄の処分を断行し、華族・士族は俸禄という封建的特権を失った。これにより、幕藩制国家の基盤は完全に一掃された。

明治維新の時期及び性格
 ペリー来航に始まる明治維新はこの秩禄処分によって完了した。明治維新の結果成立した国家の形態は絶対主義以外の国家とみることは不可能である。ここでいう絶対主義とは封建社会の最終段階を指す。それには君主直属の官僚機構が存在するのが特徴であるが、日本でも太政官の元における「有司専制」や大久保利通内務省などに官僚機構の存在と整備が見て取れる。このような形態を見るに、明治維新ブルジョア革命でなく絶対主義国家の成立を意味するが、その過程をヨーロッパと比べると、ヨーロッパの封建領主は領地に対する特権をある程度維持したが、日本のそれは短期間に徹底的に廃止され、皇室の藩屏たる宮廷貴族として優遇された。資本主義が高度に発展した時代に成立した日本の絶対主義にそれに対抗しうる強大な権力機構を創出する必要があったことや、幕藩制国家における将軍権が強くかつ武士が封建領主としての実質を失っていたことで権力の集中が容易だったことなどが理由だろう。

(記:公共マネジメント学科3年 村田勇希)