明治維新と自力工業化(5)

石井寛治『明治維新史』より、第4章「尊王攘夷から倒幕へ」のまとめを掲載します。

 1 後退重ねる尊攘運動
 大和の変の翌年、1864年になると尊攘派による大規模な挙兵が東と西で相次いで起こるがいずれも失敗に終わっている。水戸藩尊攘激派の急進グループは幕府に攘夷をせまるため挙兵したが、上手くはいかなかった。水戸藩の失敗は倒幕の発想がない佐幕的な水戸学の観念形態の限界のためである。
 長州藩激派の大挙進発のきっかけとなったのは新撰組による池田屋襲撃事件である。7名の志士が即死、十余名が逮捕され新撰組の名を一挙に高めたが、狙いを付けていた桂小太郎は対馬藩邸を訪れていたため難を逃れた。新撰組脱走者は切腹させるか暗殺するという鉄の規律をもつ団体であり、幕府への忠誠を貫く新撰組の行動は人々を畏怖させたが、当の幕府は自己保身ばかりであった。
 長州藩は上京して藩主の冤罪を訴えたが受け入れられず、ついに守護職松平容保を討つため御所をめざし突入した。蛤門で激戦を展開した長州藩は当初優位に立っていたが、かけつけた薩摩藩兵に背後から襲われ撤退することとなる。これが禁門の変である。こうして長州尊攘激派は大敗北を喫したが、そのことによって朝廷の政治的位置が大きく変化した。尊王思想が思想として純化され叡慮が尊ばれるほど尊王主義者の期待と現実の天皇の意志との間にギャップが生まれることが禁門の変で立証されたからである。
 尊王運動の面で大敗した長州藩は、1864年下関を攻撃してきた四国連合艦隊への全面降伏により攘夷運動においても決定的な挫折を余儀なくされた。四国連合艦隊が攻撃をしてきた原因は、たんに長州藩の攘夷断行にあったのではなく、むしろ幕府の横浜鎖港政策にあった。長州藩による下関海峡の封鎖は、長崎貿易への打撃はあったものの横浜貿易にはほとんど影響なかった。しかし朝廷へ約束した横浜鎖港をすすめるため生糸貿易を停滞させた幕府への不満があったために、イギリス公使オールコック連合艦隊を結成したのだ。またオールコックの考えは全面戦争に入らず鎖港策をやめさせたいというものであった。敗北した長州藩は講和を結び、攘夷方針の放棄を約束した。オールコックは幕府と交渉し償金を獲得するとともに、生糸貿易への制限撤廃を約束させた。こうして、攘夷運動もまた決定的な挫折をすることとなり、尊王攘夷運動の牙城長州藩は滅亡の危機に瀕した。

2 薩長倒幕派の出現
 禁門の変では長州藩を徹底的に叩くため、将軍自ら軍をすすめると声明をだした。35藩15万の大軍で長州藩を包囲したが、戦うことなく征長総督徳川慶勝が撤兵令をくだしそれぞれ藩地へひきあげた。この第一次征長の役が実際の戦闘なく終えることができた理由は、長州藩内で保守派が政権をにぎり幕府に対してひたすら謝罪につとめたことにある。また、長州藩主父子たちを江戸へ送るという案もあたったが、諸藩が莫大な軍役負担に耐えかねていたことからも慶勝は先に撤兵を命じてしまった。こうした幕府のおしつける軍役負担へ、農民の不満は溜まっていった。
 長州藩を謝罪降伏へと導いたのは西郷隆盛であった。禁門の変での薩摩兵の活躍を評価され、西郷は征長総督参謀を任じられていた。はじめは長州へ武力討伐をするつもりであったが、勝海舟と会談を経て考えを一転させる。幕藩体制をこえた「日本国」を意識し始めた西郷は、長州が有力な一員となりうると考えた。彼は倒幕をすぐに考えたわけではないが、幕府を一本の軸とする体制はもはや維持できないと思うようになった。
 長州の連敗に身の危険を感じた尊攘派高杉晋作筑前へと逃げるが、その後長州に戻った彼は藩内クーデターを起こし、政権を乗っ取ることに成功した。高杉が用いた軍事力は正規の藩兵と別に士分・農民・町民各層から募集した奇兵隊などであった。
 長州の武器密輸を理由に1865年、長州再討と将軍進発が宣言された。仏・英・米・蘭は厳正中立と密輸禁止を申し合わせた。そのため、密輸ルートを絶たれ孤立した長州は薩摩と手を組まなくてはならなくなったのだ。条約の勅許を求めて連合艦隊が兵庫沖に出現し、朝廷と幕府は混乱に陥った。一橋慶喜によって説得された朝廷は、条約を勅許することとなる。鎖港攘夷をとなえつづけていた朝廷が威嚇に屈したことで、妥協を強要した幕府の権威は失墜することとなる。
 幕府との対立を深めた薩摩は長州藩に接近した。「尊王」、「攘夷」の熱狂の後は「世直し」が求められるようになり、長州・薩摩が協力すれば幕府に変わる国家形成がなされるという考えは当時一種の常識のようなものになっていたが、ライバル同士であった二藩はなかなか和解できなかった。そこを仲介したのが土佐藩坂本龍馬中岡慎太郎であった。密輸禁止で薩長が接近し、薩摩名義で武器や艦船を購入することで、二藩の関係は大きく前進することとなる。慶応2年、薩摩の要請で木戸孝允が入京し、歴史的な薩長同盟が結ばれることとなった。

3 敗退する幕府軍
 第二次征長の役は石高でみれば、全国3000万石のうち800万石弱を有する幕府が37万石の長州藩を制圧しようとした戦いであった。長州の同盟相手である薩摩藩琉球をふくめて37万石程度にすぎず、両藩を合わせても幕府の10分の1というところであった。だが、経済力や財政規模を石高だけで見るべきではない。幕府の年貢米・年貢金といった経常収支は知行地のない蔵米取の幕臣への給付や役職手当・大奥経費などの経常収支へあてられ、幕末期固有の軍事費・政治費の多くは貨幣改鋳益からまかなっていた。だが、貨幣改鋳益は徐々に減り、慶応期には江戸・大阪商人へ御用金を課し、さらには生糸の産地において生産者に課税しようとしたため一揆により反撃を喰らうこととなった。下関賠償金300万ドルや横須賀製鉄所建設費240万ドルの捻出は容易ではなく、いずれも払いきれず終わる。437万両に達する第二次征長の役の軍費調達はさらに困難を極めた。幕府はフランスとの借款契約を結び、幕府を軸とする統一国家創出のためフランスに依存することとなる。
 幕府と対立する薩長の経済は、自由貿易の展開により長州の綿織物や薩摩の製糖業へ徐々に打撃を与え琉球経由の薩摩藩密貿易のうまみが奪われていた。国産物の藩外売却と輸入品を含む所品の藩内販売を掌握しているので薩摩藩でも従来の藩際交易を拡大しているが、藩権力自体が商人活動をおこなった結果の収益はさほど多かったわけではない。結局のところ、長州藩の多額の軍事支出をささえた中心は、高率な米納年貢収奪だった。綿織物業などの小賞品生産の展開により、幕末期でも効率収奪が依然として可能だったのだ。1763年から同藩は宝暦検地による差引き増高4万石の年貢を特別会計として蓄積につとめてきた。しかし、慶応元年になるとそのうち13万5000両を銃砲・軍艦の購入に支出せざるをえなくなり、あまり余裕はなかった。奇兵隊などの諸隊の兵士は一種の傭兵であるため給料が支払われ、その維持は長州藩の新たな負担となった。
 薩摩藩の新財源としては天保銭の大量模鋳があった。藩外でさかんに通用させ巨利を博したのだ。だが外商から負債返済を迫られていたため、同藩の財政も楽ではなかったが、薩摩藩では封建的軍隊にふさわしく武装自弁の原則が小銃についても適用されていたため、長州藩と比べ藩財政の負担はその分だけ軽かった。同時にオランダの貿易会社から洋銀約76万ドルを借り入れ、高価な装備を整えることができた。
 財政レベルで見た幕府と薩長の経済力は全体としても巨大な格差があった。だが、幕府軍は長州四境の多くで長州軍に惨敗した。幕府軍の敗因は全体として戦意が乏しいことにあった。もし、薩英戦争後装備の近代化に全力をあげてきた薩摩軍が幕府側であった場合、長州軍は間違いなく壊滅していたであろう。そのため、薩長同盟の意義は大きかったと言える。
 数において劣る長州軍が勝利したのは兵士の素質と経験のちがいのためだ。太平の世になれきった武士軍隊が西洋近代軍との陸戦まで経験した長州の百姓軍隊に敗れたのである。また、幕府軍が指揮系統を欠いていたのに対し、長州軍は綿密な作戦計画に基づき全体の指揮がとられていた。
 戦争により、被支配階級である民衆はもちろん被害を受けた。周防国では住民の多くに死傷者が出、安芸国の諸村では家を焼かれた罹災民4万が各地へ逃れた。出兵した諸藩は多数の農民町民を徴用した。農耕労働力不足に陥った農民は結束して徴用・負担の軽減を要求するようになった。戦争は米価の暴騰を通して町民や農民の生活を圧迫したため、百姓一揆、都市騒擾、村方騒動が相次ぎ、江戸時代最高を記録した。農村でも大規模な世直し一揆が続発した。軍役反対や打ちこわし・世直し一揆に見られる民衆の巨大なエネルギーが幕府軍の足下をゆさぶったことが、その敗北の遠因となった。
 将軍家茂が大阪城で死去したため一橋慶喜が弔合戦に出ると公言したとき、超廷内でもっとも熱心に支持したのは孝明天皇であった。だが孝明天皇は病に倒れ、この世を去った。天皇の急死は毒殺説が流布されたが、重度型痘瘡を患った可能性もある。孝明天皇の急死は討幕派が主導する新たな政治的状況の下で、朝廷が独自の位置づけを経て再浮上するチャンスを作った。

記:水谷希美(経済学科3年)