明治維新の思想(19)

芝原拓二『開国』から、「征長と抗幕と」のまとめを掲載します。

 元治元年、八月四日、軍艦一七隻、備砲二八八門、兵員五千余人を擁した英・仏・米・蘭四カ国が下関海峡に侵入してきた。イギリス公使のオールコックを中心に早くからすすめられ、三ヶ国は一年前に長州藩に襲撃されており、イギリスに反対するはずがなかった。
 イギリスに留学していた井上馨伊藤博文が、横浜に帰港した。ヨーロッパ諸国の実力を知り、お家の大事を聞き、慌てて帰国した。彼らはオールコックと会見し、自藩説得のための時間が欲しいと要望したが、長州は禁門の変の直前で、井上や伊藤の説得をきく耳さえないという実情だった。
 ヨーロッパに派遣されていた幕府の横浜鎖国の談判使節が横浜に帰航した。この使節が持ち帰った土産物は、下関で被弾したキンシャン号の賠償や、下関通航の保障、輸入関税の軽減などを取り決めたパリ約定であった。使節一行は鎖国談判どころか約定を押し付けられ、ほうほうの体で逃げ帰った。これに激怒した幕閣は、正使池田長信を重罰に処した。あまりにひどい処置でまだ28だった池田は発狂して死んだという。
 幕府からのパリ約定破棄の通告により、四カ国の大艦隊は動いた。司令官はイギリスの提督キューバー中将、副司令官はフランスの提督ジョーレス少将で、兵力の過半はイギリス軍だった。長州藩側は、とにかく戦闘回避を願って、イギリス留学経験者の杉徳輔、井上馨を交渉使節とした。自艦隊に講和を求め、さらに下関布陣の奇兵隊などの説得のために、二時間の攻撃猶予を求めた。しかし説得に手惑い、彼らが艦隊に向かう船に乗ったその時、約束の時間がすぎ、艦隊の砲門が火を吹いてしまった。約一時間でほとんどの砲台が沈黙してしまった。翌朝、再び砲撃を始め、占領作業を行うも失敗した。さらに翌日には、さらに彦島東南端の砲台を始め、残る陣地を掃討することに費やされた。長州藩側は降伏を決め込んでおり、抵抗はほとんどなかった。のち、大艦隊の旗艦ユーリアラス号上で、五カ条にわたる停戦協定が調印された。長州藩は外国艦船の下関通行を迎え入れ、石炭、食料、薪水その他入用品を供給することになった。連合艦隊の帰航後、幕府との借金取り極め書が調印される。開港か借金かの合意事項で、幕府はもちろん借金を選んだ。
 長州藩は内外ともに連戦連敗しており、一五万人もの征長軍が防・長2州を包囲し始めていた。しかし征長軍の大部分が消極的であった。征長軍の参謀となった西郷らは、当初は長州を潰すチャンスと喜んでいたが、坂本龍馬の紹介で勝海舟と会見してからは、外交攻勢と内紛助長策に変わってしまった。この勝=西郷会談と西郷の転身は、幕末・維新史にとって重要なものとなった。勝は八・一八のクーデター以後、幕権強化にのみ執心する幕府の主流に不信と苛立ちをおぼえていた。西郷や薩摩藩が、幕府独裁の野望に踊らされるようでは日本の将来はないと見て取った勝は、西郷の説得に全力だった。会談の模様は、西郷から大久保にあてた書状に詳しく記されており、それによると、勝をやり込めるつもりがだった西郷が、かえって勝にひどく惚れ申している。この会談を出発点とした共和政治・公議会論こそ、後々の薩摩藩の政治路線となっていった。同藩は、この構想で幕府独裁と対決をはじめ、富国強兵の割拠を強めていく。京都と下関で惨敗し、征長軍に取り囲まれた長州藩の内情は深刻だった。存亡の危機に直面していた。そしてついに政変が起こった。新藩庁は、ひたすら謝罪降伏して藩の存続を図る、純一恭順を主張した。志士の残党は新藩庁勢力を俗論派と罵り、正義派を再興せよ、と藩主に進言し続けた。俗論派新藩は諸隊に解散を厳命し、手持ちの武器も没収した。こうして長州藩は降伏した。全ての征長軍の命令に従い、禁門の変の責任者として三家老や四人の参謀の切腹・斬首を実行した。
 降伏したはずの長州藩では、大転回が起こる。打ちのめされたはずの正義派勢力が高杉晋作を中心として、俗論派藩庁に反旗をひるがえし、内戦によって藩権力を奪取していた。身を潜めていた高杉だったが、長州藩の状況を知り、起死回生の決起を図ることにした。高杉らの挙兵に呼応した農民大家や下士が主導する新軍事組織は瀬戸内一帯に続々生まれていった。半年足らずで正義派は勝利を勝ち取った。新藩庁は、帰藩した桂小五郎木戸孝允高杉晋作らがリーダーとなり、伊藤博文井上馨らがそれを補佐した。行政、財政、軍政の一元化が図られ、有能な人材がどしどし登用された。
 長州藩の大異変の報が幕府に入っていった。最初の征長を台無しにし、激派の覇権再確立に幕府はショックを受けた。そこで、威信を保つために武力で捩じ伏せようとした。長州処分のための上洛を長州討伐のものとして幕府軍は出陣した。これが第二次長州征伐の発火点となった。幕府と長州藩との正面衝突は避けることができなくなった。この時幕府はたかが長州一藩くらいと考えていたのかも知れなかったが、それが幕府に致命的な結果をもたらさないという保証はどこにもなかった。

(記:岡 寛人)