明治維新と自力工業化(6)

石井寛治『明治維新史』より、第10章「華族・士族のゆくえ」のまとめを掲載します。

 1 秩禄処分の明暗
維新変革の複雑さは、華族・士族層の解体をめぐる対立となってあらわれた。維新変革の立役者であり、「維新三傑」とよばれる大久保利通西郷隆盛木戸孝允の意見が分裂したのは、華族・士族層、とりわけ士族層の命運をめぐってであった。
 西郷隆盛らが下野したあと、正院は懸案の家禄処分案を検討し、家禄税の賦課と家禄奉還制の実施が公布された。正院での討議に対し、病気で不参の木戸孝允は強い反対をとなえた。しかし、木戸の家禄奉還制度案は中級以上の士族を念頭に資本創出をねらったもので、政府支出の減少にはつながらず、大蔵省の足をひっぱることになった。
 家禄支給高の減少にもかかわらず、財政支出中の家禄の比重は依然三分の一前後を占め続けたため、政府は家禄処分案を検討した。これに対し、木戸孝允は反対論をとなえたが、正院ではもはや耳を傾ける者はいなかった。正院での議論の主導者は大久保利通であり、木戸は内閣顧問の立場から大久保と大隈の政策を批判した。中央政府の官僚となった彼らは、まず所属藩の立場を超克しなければならなかったが、所属階層の利害を否定した秩禄処分事業も遂行しなければならなかった。倒幕のリーダーが同時に新国家建設のリーダーとなることは至難の業であった。
 木戸孝允の反対をおさえつつ、正院は家禄処分案を決定し、明治九年八月五日、金禄公債証書発行条例が布告された。家禄処分は、収入の減少率からみれば上層に厳しく下層に緩やかなものであったが、問題は収入の絶対額にあった。大部分の下士層は少ない利子収入しか得られず、ほとんどは極貧層へと転落するしかなかった。一方旧藩主クラスの上層の場合、収入の減少率は高かったが、公債利子の絶対額は多く、生活費の余りを資本に利殖をはかることが可能であった。維新政権の官僚は版籍奉還以来、旧藩主層を抱きこんで新国家建設へ向かっており、そのことが秩禄処分の際の華族と士族の明暗を分けることになった。

2 資産家となる大名華族
華族の中での金禄公債にも大きな格差があったが、この格差は旧幕時代の諸大名・公家の経済的地位と同時に、維新変革における政治的役割を強く反映していた。
 岩倉具視が第十五国立銀行を設立したのは家産の分散・消滅を防ぐためであったが、大蔵大輔松方正義と同時に、明治天皇が岩倉に対して華族銀行設立を進言した点は注目すべきだ。近代天皇制の形成において貴族制による支えは不可欠であり、天皇自らがそれを自覚していた。華族銀行は他の国立銀行と異なる特別待遇を受けており、政府のねらった華族と士族の分断は成功した。
 版籍奉還を契機とする家産保障から、秩禄処分による収入激減までの明治初年は、華族資本そのものが、国家権力の直接的介入のもとに蓄積、創出される決定的な時期であった。
 華族の中でも公家出身の華族の収入は乏しく、三条家のように、宮内省からの整理公債を加えて何とか体面を保った一族もあった。

3「士族の商法」の成否
 士族の最大の就職先は官吏や教員、警察官であり、政府はそれらの採用にあたって士族をしばしば優先した。士族は果敢に新事業に挑戦しており、当時の士族の企業者精神の役割は現在も高く評価されている。
 士族にとって官吏・教員やブルジョアジーになる道は限られており、残された有力なコースは、農業中心の社会においては農民化の道であった。廃藩置県以前の諸藩ではすでに農民化への努力がはじめられていたが、旧幕臣にとっては緊急の課題であった。大名華族が資産家へと転身を遂げつつあった時、彼らの家臣であった士族の多くはプロレタリア化への道を歩んでいった。

4 最後の士族反乱
 秩禄処分の決定によって追い詰められた士族は、明治九年秋から十年の西南戦争にかけて一連の武装反乱をおこした。
 明治初年の熊本には各派が競い立っており、肥後勤王党から分派した敬神党は、強烈な攘夷思想を保持し続けていた。彼らは帯刀を日本が神州であるシンボルとみなしていたため、廃刀令にはげしく反発し、十月二十四日夜に立ち上がった。敬神党決起の報が伝わると、十月二十七日、福岡県の旧秋月藩士族磯淳らの率いる二百三十名余りが蜂起した。彼らは小倉の鎮台分営を攻撃して山口県萩の前原一誠のグループとの合流を目指したが、期待していた旧小倉藩の豊津士族の協力が得られず、鎮台分営兵によって鎮圧された。二十八日には、前原一誠の率いる山口県の不平士族が反乱に立ち上がった。彼らは、萩の明倫館で「殉国軍」を結成して山口県庁を襲撃する計画であったが、政府軍が逆に萩を攻撃、大阪鎮台兵も応援にかけつけ、前原らは斬刑に処せられた。
 これら一連の反乱は、廃刀令秩禄処分への反対といった士族の特権擁護という後ろ向きの主張であり、民衆との結びつきをもちえなかった。
 明治六年の政変で下野した西郷隆盛をむかえた鹿児島は、士族の独裁国家の様相を呈していた。県政の最高責任者大山綱良は、中央政府の政策に事あるごとに抵抗し、鹿児島県へのストレートな適用を拒もうとした。廃藩置県後も鹿児島は「藩」のような存在であり、士族はほかの地域よりも優遇されていたが、農民の生活は苦しいままであった。
 このような県の存在を、明治政権は放置するわけにはいかない。当時の明治政府も大久保独裁といわれる体質をもっていたが、それは士族の諸特権を解消しつつあり、鹿児島における士族独裁とは決定的な差があった。
 一方、鹿児島士族の実質的なリーダーである桐野利秋篠原国幹村田新八らとしても、中央政府との対決姿勢をかためたとはいえ、国民に訴えるべき大義名分をもっておらず、政府に挑発されるままに十年二月十五日、鹿児島を出発した。
 西郷軍は島津久光・忠義両家からも冷淡な態度をとられており、状況判断に基づく戦略にも欠けていた。三月二十日、田原坂の難関が政府軍によって突破され、四月十四日に西郷軍の背面をついた政府軍が熊本城へ入城し、西郷軍は人吉へと撤退した。その後五ヶ月余りの戦闘は、しだいに兵力・弾薬の乏しくなる西郷軍を政府軍がおいつめる掃討戦であった。九月二十四日午前四時にはじまった政府軍の総攻撃のもと、負傷した西郷隆盛は自刃し、西郷軍は敗北した。
 この西南戦争以降、士族反乱はなくなり、日本は近代天皇制国家の成立へと向かっていった。

 明治政府は近代天皇制国家をつくるため、旧藩主を抱きこみ、華族と士族が分断された。華族は資産家、士族はブルジョアジーや農民の道を歩んだ。秩禄処分によっておいつめられた士族は反乱を起こしたが、政府によって鎮圧された。この時期、政府の政策によって、華族と士族の分断は次々と進んでいっており、政府の力の大きさを実感した。

記:野中利南(公共マネジメント学科3年)