明治維新と自力工業化(1)

今年度も昨年度に引き続き、明治維新をテーマとします。今年度最初に扱うテキストは石井寛治『明治維新史 自力工業化の奇跡』(講談社学術文庫、2018年/原著『体系 日本歴史 第12巻 開国と維新』小学館、1989年)です。経済史の観点が取り入れられた著作ですので、これまでの政治史、外交史、思想史等の観点を補うことができると思います(今年度ゼミⅠ履修生の皆さんはぜひ先輩のまとめた過去のエントリーを参照してください)。なお、今年度は地域史(長州)の観点を昨年以上に意識して取り入れていく予定です。

今回は同書から第1章「広がる黒船ショック」のまとめを掲載します。

 1 ペリー艦隊の来航
1853年、ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に到着した。東アジア海域における最強の軍事力にのしあがっていたアメリカと鎖国下の貧弱な状態の日本との差は明確であった。ペリーは軍事的威圧を背景にもちつつ、防御上必要な場合をのぞき、みずから戦端を開くことを禁じられており、一貫して平和的交渉の線を貫いた。しかし、その態度は日本政府との交渉が失敗した場合は代わりに琉球および小笠原諸島を領有するという計画を立て、その前提条件に支えられていたことを見落としてはならない。ペリー派遣の背景として、アメリカ艦隊が49年に長崎に乗り込んで遭難したアメリカ船員の引き取り交渉に成功し、帰還して市民の熱狂的歓迎を受けた事件や、50年代初頭のアメリカが、外部志向型の経済であったことなどが挙げられる。
2 和親条約結ばれる
ペリーが持参したフィルモア大統領からの日本皇帝あて国書には、江戸を訪問させた目的として「友好、通商、石炭と食料の供給、及び吾が難破民の保護」と記されていた。老中阿部正弘は受け取った国書を幕臣と諸大名に公開して意見を求めた。その結果、前水戸藩徳川斉昭の開国拒否=主戦論と幕府の寺社奉行町奉行勘定奉行らをはじめとする通商許容=平和論が対立してまとまらなかった。しかし翌年、再び江戸湾にペリー艦隊が再航すると、日本側は「通商」をのぞいて受託してしまう。さらに、ほぼ同時期に、ロシアからプチャーチンが長崎港へ侵入し、日露通好条約が調印された。ついでイギリスからスターリングが長崎港へ侵入し、日英協約に調印、最後にオランダとのあいだで調印された日蘭和親条約と、日本は次々に諸列強との条約を締結した。
3 揺らぐ幕府支配
黒船の出現から列強との和親条約締結までのあいだ、幕府首脳部の対外政策はその場しのぎの妥協に終始していた。このジレンマを解く妙案として、幕閣の注目を集めたのが、勝麟太郎の「交易の利潤」をもって軍備を整えることを主張した答申書である。勝は人材の登用、洋式兵制の採用、教練学校の開設といった人間主体の面にも十分配慮おり、「交易」開始を列強への屈服としてではなく、列強に対抗する手段として積極的に位置づけた。諸藩・朝廷を含めた挙国一致の体制をつくるためにも、中軸となる幕府の政治改革が不可欠であった。そこで阿部が推進した安政期の幕政改革は、勝の上申書と一致しており、まずは有為な人材の抜擢、長崎で開かれた海軍伝習所、藩書調所の設立などが行われた。
4 ハリス来航と通商条約
ペリーが手掛けた日本開国の事業は未完成であり、自由貿易の開始という難事業を担当し、やりぬいたのはハリスであった。ハリスは1856年に下田に到着し、江戸行きの要請を試みつつ、他方では翌年調印された下田協定で、アメリカ市民の下田・函館居住権とアメリカ人への領事裁判権などを獲得した。江戸に入ったハリスは阿部にかわって老中首座の座についた堀田正睦を訪問し、通商条約の必要性を説いた。堀田が幕臣と諸大名に意見を求めたところ、過半が承認論であった。しかし、国際法の知識の欠如から肝心の関税自主権について日本は放棄してしまい、領事裁判権も下田協定と同様にアメリカ側だけがもつこととされた。さらにアメリカ側から日本へ与えられるべき最恵国待遇も撤回されてしまい、こうした不平等条約の三大特徴が通商条約に備わることになった。こうして日米修好通商条約は決定され、あとは調印を待つばかりとなった。


アメリカをはじめ諸列強が日本の開国に迫る中、日本の幕府は挙国体制を固めるべく、幕臣や諸大名に対外策を諮問した。しかし、このような異例の措置は、朝廷の政治進出の端緒となっただけでなく、幕府がもはや従来の専断的体制をおしすすめる能力がなくなったことを意味し、このことから幕府政治の限界を感じた。
(記:久保田菜摘 経済学科3年)