田中彰「明治維新」(1977年)のまとめ

田中彰明治維新」(『北海道大学人文科学論集』14, 1977年)のまとめを掲載します。

 1.明治維新の範囲ととらえ方
 
 明治維新はいつからいつまでか、という問題は、明治維新の性格をどう捉えるかにより変わる。また、明治維新によって、創出された近代天皇制国家(権力)はどのような性格をもったか、という問題もある。これらの問題に対して、様々な見解がある。

 1920~30年代は、明治維新は“黒船来航”からはじまったという見解がある。幕末の史科のなかには「癸丑以来」ということばがよくみかけられる。「癸丑」とはM・C・ペリーの来航した1853年のことをさす。つまり、人々にとってどれほど衝撃的だったかわかる。また、井辺茂は、明治維新この黒船来航によって目覚めた識者たちが国家擁護のためにおこした運動である、と述べている。このように、明治維新は“黒船来航”という東アジアにおける欧米世界からの外圧下の影響で遂行されたという偶然的要素によってはじまったとみる見方が根強くあった。

 1945年の敗戦後の明治維新研究は、“黒船来航”という外からの偶然的な契機によってとらえるのではなく、内側からの要因、つまり歴史の発展を内的必然性においてとらえようとするマルクス主義的発想と成果をひきついで開始された。外圧より前に、維新に通ずる内的要因があったことを検証しなければならない。その結果、1830~1840年代、つまり天保期こそが維新の起点であり、天保期には維新へ登場するもろもろの要素がほぼ出揃い、ここに明治維新の原型があった、とされた。天保期「絶対主義傾斜」論が主張され、維新の始期は天保期におかれた。

 しかし、複雑な明治維新の特質は、この内的必然性からの視点だけでは解けなかったので、1960年前後から、それへの再検討がはじまり、明治維新が起こった要因は国内的要因と国際的規定性を統一的にとらえ、両者の構造的連関のなかで維新のもつ特質をえぐりだそうというものである。この結果、維新の始期は“黒船来航”から“開国”、つまり、通商条約の調印(1858年)へとシフトした。

 次に終期であるが、始期よりも多くの見解がある。もっともはやい終期説は1871年廃藩置県で維新は終わったとされる。廃藩置県によって、一応統一国家が形成されたからである。これに関連して、73年説が存在する。この時期には、地租改正令・徴兵令・学制という新たな政策が揃ったからである。さらに、この年に征韓論の分裂、つまり「明治6年10月の政変」がおこる。これまで倒幕で足並みを揃えてきた維新勢力はここで分裂した。

 また、士族反乱の最後の、そして最大のものとされる77年の西南戦争で維新は終った、とみる説も強い。この前後に木戸孝允西郷隆盛大久保利通といういわゆる“維新の三傑”が相次いで死んでいることも影響している。

 79年の「琉球処分」を終期にとる見解もある。廃藩置県説もあるが、琉球処分で日本の近代国家としての領域は画定される。

 「明治14年の政変」(1881年)をひとつの転換点とみる説もある。この政変あたりから国家権力の基盤が変化したとみるのである。さらに1884年明治14年)説は、秩父事件前後から領主対農民という幕藩体制的な階級関係が、はっきりと寄生地主・資本家対小作人・労働者の関係へと転換した、と考える見解もある。

 大日本帝国憲法は89年に制定され、翌年教育勅語がだされた。これによって近代の法的な枠組みとイデオロギーが形作づくられたとして、この時点を維新の終期とみる説もある。


2.維新政治運動の論理

 徐々に迫る外圧は、幕藩体制的な世界観からは「夷狄」ととらえられ、その夷狄観に対応した理念的な「国家」を支配階級に意識せしめた。『新論』(安沢安著)では「国体」は「神聖」視され、それを犯そうとする「夷狄」=外圧に対しては、幕府も朝廷もこの「国体」論的国家の枠組みのなかにあった。だから、朝廷は海防に関する沙汰書を先例がないにもかかわらず幕府へ下しえたし、幕府もまたペリー来航に関する朝廷への奏聞をためらいなく行えた。そのことが結果的に、これまで無色かつ非政治的な朝廷(天皇)を政治化させた。

 すでに諸藩は天保改革以降および激しい権力争いで力を蓄積しており、中央政局へ登場する条件は徐々に整えつつあった」。その際に起こったのが“黒船来航”である。これにより、幕府は展望のないまま和親条約から通商条約を締結していった。これを批判したものは処罰した。大老井伊直弼による安政の大獄(1858~59年)がそれを示す。

 幕藩体制のもとにあっては、政治の「公」と「私」とは不明文であったが、いまや幕藩体制をこえた外圧という問題によって、天下の「公」と幕府の「私」とが明確になり、その「公」を独占し、「公」を「私」化するものとして幕府は批判された。一方、この点化の「公」は、外圧による「国体」論的国家の危機によって浮上した天皇と結びつけられた。「天下は天下の天下」という発想と、「天下は1人(天皇)の天下」という発想がここに対峙した。「天下は天下の天下」という発想の政治運動は、公武合体運動としてあらわれた。これにたいして、「天下は1人の天下」とみる発想は、「国体」論的危機に対する草莽の台頭ないし政治行動を背景としており、尊攘運動とよばれる政治運動を行った。しかしながら、「文久3年8月18日の政変」(1863年)によって尊攘運動の勢力は京都から追放され、公武合体勢力が主権をにぎった。

 次に、尊攘勢力が行ったことは天皇の絶対化と天下の世論を体現した存在にすることである。そのため、孝明天皇急死の後をついだ明治天皇が、1868年3月、江戸城総攻撃予定日を直前にして、文武百官を率いて天地神明に誓った五箇条の御誓文は、天皇の絶対的権威と、天皇が万機を公論に決することとが、まさにセット化されていることの何よりの表明である。このセット化によって政治操作が可能となった。

 この天皇の権威と公議世論をセット化し、国家支配のダイナミックスを演出したのは、討幕派出身の維新官僚であり、藩閥支配者たちであった。彼らは、官僚でありながら政治支配者でもあった。つまり、頂点に天皇をおいて権力の集中をはかり、反面では公議世論の尊重をかかげて権力の基盤の拡大を進めること彼らが担っていた。

 この“集中”と“拡大”によって、近代天皇制は創出され、構築されていったのである。


3.世界史のなかの維新と維新のなかの民衆

  さきに岩倉使節団は、米欧をくぐりぬけ、近代国家やヨーロッパ国際政治をみをもって知ったといったが、その持つ意味は大きい。一行は米欧で19世紀70年代におけるブルジョア国家のあり方や国際政治の実体を目の当たりにして、小国が大国の間にあって、いかに独立や中立を保持しているかを、一行はともに知った。

 しかし、そうした大国と小国とを回覧するなかで、使節団をしてもっとも鮮烈に印象をもたらしめたのはプロシアであった。プロシアは力の政策で小国から大国へとなりあがった。これにより、使節団は万国公法が力で左右されることを知り、使節団はその道を選ぶことにした。また、帰国の際、アジアやアフリカにより、いかに米欧よりも劣っているかを知り、“脱亜入欧”を掲げた。また、最後に民衆のエネルギーは凄まじいものがある。幕末期の民衆闘争は激しいかった。

 しかし、その民衆のエネルギーは、1866年の農民一揆の最大の高揚と翌年の「ええじゃないか」がおこなわれた。このエネルギーの源泉は民衆の願望からなっている。その願望を討幕派や維新官僚たちは、巧みに政治的エネルギー化した。すでに指摘した天皇と公議世論のセット化のなかで、民衆の願望的エネルギーをみずからの政治行動のチャンネルに流し込んだのである。流し込むことによって維新の指導者たては、民衆の望む「一新」を「御一新」として、上からのものにすりかえた。維新を天皇の名のもとに民衆に与える形をとったのである。そのようにして、維新によって、天皇は形づくられていったのである。

感想

 本論文に書かれていた明治維新の変遷について、まず明治維新が偶然的であるのか、それとも必然的であるのかについて追及されていた。今まで私は、歴史を歴史としか見てなく、ただ受動的に受け入れるのみであった。しかしながら、このように歴史を奥深く考え、本当の姿を追求することが勉学なのかなと考えさせられた。これからは、1つ1つを真剣に向き合い、考えていきたいと思う。

記:植村将也(経済学科3年)