長州の政治経済文化(12)

 アメリカの著名な歴史家アルバート・クレイグ(Albert M. Craig, 1927- Albert M. Craig - Wikipedia)の著作にChoshu in the Meiji Restoration (1967)があります。クレイグは日本でもよく知られ、翻訳書も出ていますし、明治維新150年の際には来日し、インタビュー記事も出ています。

明治維新を主導したのはなぜ薩長だったのか、ハーバード大教授が徹底解説 | ハーバードの知性に学ぶ「日本論」 佐藤智恵 | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)

 この記事でクレイグが述べていることは、明治維新そのものに関しては邦語既刊書で述べられていることをなぞっただけのようにも見えますが、歴史をふまえての次のような将来展望には刮目すべきものがあります。

 現代の日本に、明確な目標はありません。日本はすでに「西洋には良い部分と悪い部分があり、西洋から全部を学ぶ必要はない」ということを知っていますし、日本が西洋より優れている部分もたくさんありますから、「西洋に追いつけ」というのはもはや意味がありません。

 日本は引き続き科学技術、経済、教育に力をいれていくべきだ、というのは簡単ですが、国としてどの方向をめざすのか、誰もわかっていないところが問題だと思います。日本はすでに西洋よりも進んだ文明国になったともいえますから、多くの課題を解決していく実験場となっていくのでしょう。

 「多くの課題を解決していく実験場」とは何を意味するのでしょうか。日本は明治維新においてすでに「多くの課題を解決していく実験場」であったとも言えるかもしれません。「実験場としての日本」。このことの意味を、クレイグのデビュー作である冒頭の著作から読み解いていきたいと思います。

 著作冒頭、Introductionでクレイグは幕藩体制下の藩の自律性と藩士としてのアイデンティティに言及します。

 まず藩の自律性については、徳川政権崩壊後、いちはやく王政復古体制が樹立されたのは、徳川体制がすでに中央集権的であるからで、その点、トクヴィルが指摘するように、フランスにおいて1789年の革命以前に中央集権の絶対王政が完成していたことと共通する、という見方がありますが、これをクレイグは否定します。財政、行政、教育などの分野で藩の自律性はきわめて高く、それにもかかわらず中央集権体制が急速に樹立されたのが、明治維新の特徴であるということになります。

 次に、藩士としてのアイデンティティについては、これが個人としての行動の動機を支えていたとします。

…藩は、徳川時代のサムライのアイデンティティの中心を占めていた。同時代のイギリスの郷紳とも中国の知識階級とも異なり、サムライは彼らの忠誠の階層的性質からして、自身を一つの社会階級の成員と見るのではなく、特定の藩の成員だと考えていた。…サムライは他の階級の成員の持たない徳性を共通して持つと考えられていたにもかかわらず、他藩のサムライはなんら同一階級に属する仲間ではなく、潜在的にはつねに敵であった。(p. 6-7)

 こうした事態は徳川幕府が諸藩にくらべて強大な一つの藩のような役割を持つこと、および参勤交代などによる幕府の巧妙な諸藩支配が功を奏した結果だとします(p. 5)。自律的な諸藩のなかにあって幕府がこれをうまく統制するというパワーバランスで幕藩体制が維持されたのですが、このバランスが、内的には商業の拡大、都市文明の発展、西洋知識を含む教養の進展によって、そして外的にはペリー来航に代表される外国勢力の接近によって崩れていった、という見方となります(p. 5-6)。

 改革勢力としての薩摩・長州が維新の先導者となった最大の要因は、それぞれが藩政改革に成功し、かつ巨額の負債を金融・産業政策によって乗り越えたことにあると、先のインタビュー記事では述べられています。そしてさらにその背景には、両藩の藩士としての強固なアイデンティティが、そしてそれゆえに両藩が(同盟以前の)それぞれに対して抱いた強烈な対抗意識があったと解釈することができそうです。

 高杉晋作奇兵隊創設にあたって広く農民や商人をも受け入れましたが(そのために萩藩士を中心とする「撰鋒隊」と衝突しますが;教法寺事件 - Wikipedia)、その一方で毛利家家臣としての強烈な自負をも持っていました。と同時に彼は他藩士と交わるのを極度に嫌ったともいわれています。こうした強固な藩士アイデンティティが維新の原動力の一つだったのかもしれません。