明治維新の思想(10)

和辻哲郎著『日本倫理思想史』第五篇第六章(五、六、七)、第八章(一、二、三、四)、第六篇第一章のまとめを掲載します。

【第五篇第六章(五、六、七)】

 和辻哲郎著『日本倫理思想史』(四)の第六章「江戸時代中期の儒学、史学、国学等における倫理思想」では、十七世紀後半の史学や古文辞学について述べられている。この時期の特徴的な現象は国学の勃興と心学の流行である
 まず、賀茂真淵はこの時代の代表的な国学者であり、代表的な著書には『国意考』『祝詞考』等が挙げられ、祝詞、文法の大成を果たした。
 その一方で、儒学の思想を排撃した。真淵は儒教の否定を通じて古道を解明しようと試みたのである。彼は、儒学の抽象的人工的な理、厳格な制度、先王の道が、わが国日本の限定固定されない自然や素直さに反するものであるとし、敢然として儒教に戦いを挑んだのである。そうしてこの儒教排撃が、同時に国学の確立を意味したのであった。
 本居宣長は、より良いわが国の形成のためには先代が作った古代の道を振り返るべきとし、日本最古の難関な古事記の解明に精励した人物である。彼は23歳の時学んでいた医学の他に古文辞学古義学にも触れており、これが後に彼独特の文芸感につながったとされる。
 竹内式部大義名分思想のなかに問題を読み取り、王政復古の問題として取り上げ、さらに廷臣一同が神の道、すなわち神道を学び、共同することで政権を奉還させるべき方法にも深く言及し、若い公家たちに感激をひき起こすも宝暦事件で弾圧される。
 山県大弐は『柳子新論』で大義名分を明らかにし、武家政権を否定した。彼は平常の講義において不穏な文句を数えたとされ、死刑される。
 こうして見てみると大義名分論は今やようやく実践的色彩を帯びてきたので、幕府の態度も変わったのである。人々は尊皇の言説を慎まなくてはならなくなった。そこで勤王論を唱える代わりに、みずから勤王家として実践する型の人物が現れてくる。それが高山彦九郎蒲生君平である。林子平も同じく幕府の支配を否認し、国民的な立場で物を考える前二者と同じ考えであったが、彼は特に国防を問題として取り上げた。『海国兵談』がその著書である。
 この中で子平は、今やロシアのみならず一般にヨーロッパ諸国の強い攻撃力を持った軍艦が我が国のどこへでも来襲しうると述べている。しかしこの主張が日本全国を全体として考えるということが江戸幕府の封建組織に違反しているとされ、不穏の言論として寛政3年の末、捕らえられる。
 しかしその後ロシアのラクスマンの通商互一要求・レザノフの来航・千島樺太への侵略等、子平の警告は次々と現実のものとなる。
 これら三人の仕事は、日本人が伝統的な思想や感情、また国際的な情勢からも国民的な立場で物を考えなくてはならないことをせまられていたことを意味するだろう。

(記:井上日和 国際商学科3年)

【第八章(一、二、三、四)】

江戸時代末期の勤王論
 18世紀から19世紀へ移り変わったこの時期、日本の歴史的情勢が急激に変化した。
 ラスクマンが根室へ通商を求めたり、ブロートンの測量船徘徊、レザノフが長崎で通商を迫った。近海ではアメリカ船やイギリス船の姿も見られていた。幕府は防衛しようとするが、封建大名は国内線前提の武力しか備えられていなかった。これは鎖国政策とともに江戸幕府封建制も脅かすことになった。

1.藤田幽谷
 前述した傾向を最初にはっきり見せたのは、後期水戸学で、これは藤田幽谷に始まると言っていい。幽谷は幼い時から異常な学才を示し注目されていた。幽谷はラスクマン来航を北虜之警と呼称した。当時の人が平和に恋々とし、軍備に努めないことを攻撃し、たとえ今、藩主の力をもって幕府の政策を動かせないにしても、藩の立場においては、直ちに武備に着手しなければならない、と主張した。この主張は、外国の圧迫が加わってくるに従って強くなっていった。幽谷の攘夷論は、国民的自覚という新時代の動きに、保守的思想をかぶせたものである。この攘夷論によって水戸学の大義名分は新しい性格を得た。このことから後期水戸学は、藤田幽谷に始まるといえるのである。

2.会沢正志斎
 会沢正志斎は、水戸の藩主の家に生まれ、少時より幽谷に師事して彰考館の写字生になり、後藩主に用いられ、斬次重きをなすに至った。文政8年に『新論』を著す。『新論』は、幕末勤王論に強い影響を与え、幽谷の攘夷思想を詳述したものといえる。この書で会沢は欧米人の圧迫に対して、国民的自覚を喚起しようとした。会沢は、天地の大道が儒教によって立てられたと考えているのではない。天地の大道は天地を貫く普遍的な道であり、儒教が伝わる以前から行われていたと主張した。しかしその道の内容は、儒教の説くところと変わりがない。従って歴史的形成物としての儒教の思想は、そのまま普遍的な道として取り扱われることになる。この点において会沢は、国学勃興以前の儒者の態度をそのまま踏襲していると言える。

3.藤田東湖
 幽谷の子で、会沢より24歳年少だったが、若くして会沢とともに活躍。政治家肌であり、文芸の才に富んでいた。著として有名なのは、『回天詩史』、『常陸帯』。また、東湖の主張を最も秩序立てて示しているのが、『弘道館記述義』である。『弘道館記述義』は、『弘道館記』の注釈。内容の大綱な弘道館記につきている。『回天詩史』、『常陸帯』で東湖の政治的活動をその文芸的魅力によって世間に訴え、表現していった。『常陸帯』は簡潔な和文であるが、『回天詩史』は漢文である。しかしこの時代の有識階級に対しては、非常に有効な表現手段であった。18世紀を通しての漢文の理解力の増大が、東湖の主張を広めるのを手伝ったのである。

4.頼山陽
 藤田幽谷より6歳年少。主著は『日本外史』で、『新論』よりも1年後にたてまつられている。父の春水は有名な朱子学者で、母も文筆に優れ、母から教育を受けていた。21歳の時、脱藩して監禁されている間に、基礎的な労作を済ませていた。『日本外史』は、平安時代末期の源氏・平氏の争いから始まり、北条氏・楠氏・新田氏・足利氏・毛利氏・後北条氏・武田氏・上杉氏・織田氏豊臣氏・徳川氏までの諸氏の歴史を、武家の興亡を中心に家系ごとに分割されて書かれている。全22巻。攘夷論は後期水戸学の特徴であるが、山陽は会沢のように外国の圧迫を重大な意義として理解しておらず、軍備に対する警戒の念も会沢ほど強くなかった。しかし山陽は、会沢より外国に対する警戒ははるかに薄かったが、国学に対する態度は会沢と何ら変わらなかった。これは2人共が儒教の上に立っていることを示している。最終的に山陽は、国学というものがあるはずがない。のみならず代々の天皇儒教を用いて令典とした。儒教を非議するのは天皇の令典を非議するものである、と主張した。

(記:田村優人 経済学科3年)

【第六篇第一章】

  明治維新は日本の歴史において、非常に重要な意味合いを持つものだと言われる。それは単に700年来の日本の政治的慣習が打破されただけでなく、この機会に社会組織が一変したからである。すなわち、武士による支配の終焉である。身分の別も消滅した。そして、維新後わずか2、30年の間にその特別扱いの痕跡をほとんど全く失われた。これは注目に値すべき事実である。なぜ、数百年の間固定されていた身分の別が極めて短時間の間に洗い流されたのであろうか。
 理由として、士農工商の名目上の身分の別にかかわらず、実質上さほどの区別がなかったことが挙げられる。戦国時代、もともと武士も民衆の中から誕生した階級であり、16世紀、戦国から桃山にかけての時代に民衆の力が二つに分かれた。武士団体を新たに活気づかせる力と、一揆の形で民衆を組織する力である。結局、武士団体の方が勝利を収めたが文化の担い手としては民衆の力は武士を凌駕していた。秀吉が民衆の武装解除を断行し、家康がこの方針を世襲して民衆の政治的無力化を推し進め、江戸幕府が封建的組織を確立した17世紀は16世紀におけるよりも政治的にはるかに弱くなってはいたが、元禄文化の担い手は大阪や京都の町人階級であり、文化的には支配者となっていた。武士階級と農工商階級との間にこういう知識階級が存在していれば名目上の身分の別は実質的にさほどの意味を持たなかったのである。しかし、彼ら町人階級がヨーロッパの近世におけるブルジョワジーの台頭と、著しく異なる点は政治的にはあくまで抑圧された階級であることだった。鎖国により海外と接触を避けてきたことがその原因であり、幕末の黒船来航で人々は抑圧からの解放を得る機会に直面することとなる。
 時の老中阿部正弘は外国との条約締結につき、広く諸侯有志から意見を徴し、朝廷にも事情を報告した。外国からの圧政が加わり始めて以来時々同じことを行ってはいたがペリーの場合は問題が重大であるため著しく一目についたと考えられる。鎖国は日本人の心構えの上に閉鎖的な修正を植え付けていた。少数の開国論者を除いて、当時の優れた代表的な思想家たちが攘夷論を提唱したことは、当時の日本人の大体の感じ方を示すものであろう。この攘夷の感情を様々に利用したのが和親条約締結から大政奉還にかけて政治に干与した武士たちであった。和親条約ではかろうじて攘夷を抑え込んだ幕府であるが、通商条約では朝廷の勅許を得ずして通商を結び、これが違勅問題として攘夷の感情は勤王討幕へと動き始めた。

 阿部正弘亡き後の老中井伊直弼はこれに弾圧を持って答え、世に言う安政の大獄が始まった。そして、井伊直弼自身が桜田門外で暗殺されるに至る。彼の死後、文久3年の宮廷クーデターにより長州勢は一部を残して京都から長州に落ちた。幕府は6候から成る朝議の「参与」を構成することに成功し、朝廷と雄藩を味方につけ、さらに、この頃各地の藩で勤王党の指導者が投獄される事態も起きており一時的に公武合体派が優勢になった。しかし、根本的な問題は矛盾をはらんだままだったので結局会議は分裂しかねてより挙兵の機会をうかがっていた久坂玄瑞は挙兵を決断し、蛤御門の変を起こした。長州は朝敵となり、幕府は長州征伐を行う必要に迫られたが大軍を諸藩から出兵させるにあたって旧体制の弱点が露呈した上、第二次長州征伐の失敗により幕府の威信は大きく低下することとなったのである。
 他にも討幕勢力の追い風となった幾つかの要因がある。1つ目に米英仏蘭の四国艦隊に攻撃された上第一次長州征伐により弱気になった長州藩高杉晋作の藩内挙兵によって再び討幕の方針になったこと、2つ目に幕府内部の明敏な達眼の士の存在であり、阿部正弘時代に登用された大久保忠寛勝海舟といった存在が討幕勢力に大きな影響を与えた。3つ目に薩摩藩内の洋学派藩士の存在である。薩英戦争によって藩内でそれまで勢力を持っていた水戸学的尊攘派に変わって経世的洋学派の藩士が大きな発言力を発揮するに至った。慶応元年には洋学派の藩士の一部が英国に留学し、英国政府の対日政策を討幕勢力の有利になるように交渉した。4つ目にイギリスとフランスの角逐である。フランスは幕府側につき、イギリスは討幕勢力側につき、それぞれ有利に対日政策を進めようとした。5つ目に経済破綻からの民衆の幕府離反の気が高まったことだ。通商貿易の始まりにより国内では様々な問題が発生し人々の生活は困窮し、さらに軍役の賦課もあり民衆の心は幕府から離れていったのである。
 この運動の担い手として頭角を現してきたのが下層の武士と上層の庶民からなる革新的な集団であった。それはすでに以前から形成されていた知識階級の中の能動的な部分であった。
 慶応3年1月に少年天皇の即位と追放されていた討幕派諸公卿・親王が朝廷に復帰し、勝海舟坂本龍馬に受け継がれた大久保忠寛の腹案「将軍の大政奉還」が現実味を帯びてきた。龍馬は忠寛・海舟の構想を具現化した「船中八策」を書き記し、それが山内容堂の「大政奉還建白書」に結実し、彼らは幕府が要求を飲まざるおえない状況にするため坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結ばせ、幕府に圧力を加えた。薩長の武力討伐路線と土佐藩の平和革命路線はほぼ同時に朝廷工作に成功し10月13日に薩摩に、14日に長州に討幕の密勅がおりた。15日には慶喜大政奉還への勅許が公けにおり、幕府は大政奉還に応じ徳川幕府の長きにわたる支配が集結したのである。
 王政復古の大号令ののち新政府は矢継ぎ早に幾つかの改革に着手した。明治2年に版籍奉還、明治4年に廃藩置県によって封建勢力の武家支配を終了させた。5年には学制の発布、その後地租改正令や徴兵令を、さらに鉄道や電信の技術、金融や商工業の組織などにおいてもヨーロッパに追いつく努力が行われた。実際に追いついたのは明治20年代から30年代へかけてであった。

 一連の急激な改革は反動となって現れもした。廃藩置県により封建制は崩されたが、封建的意識がぬぐい去られたわけではなく、非常な不満を政府に向けた。政府は征韓論によって士族の不満をそらそうとしたが主張は敗れ、主張者たちは政府を去った。敗れた者の一部は武力によって散っていったが、一部は民撰議院設立を建白して民権運動を開始している。これが日本における最初の参政権運動であった。明治10年代は、自由民権の声に押されつつ、立憲政体を作り上げていく時代でもあった。明治13年には国会開設を要求する運動が高まり、翌年に国会開設の期を明治23年とする詔が発せられた。18年には内閣制が樹立され、民間では板垣退助自由党を結成し、15年に大隈重信が改進党を結成したが、前者は数年で解党し、後者は大隈自身が脱党し、民権運動の方は組織が宙に浮いていた。22年には、憲法が発布され、23年には帝国議会が開かれた。形の上ではヨーロッパに追いついたのであり、それを成し遂げたのは下級武士階級や上層庶民階級から出た人々であった。
 明治10年代が欧化主義の時代ならば、20年代は反動の時代であった。江戸時代の文芸や日本美術、歴史が尊重され、水戸学的な国粋主義儒教的な士道の考えや主従道徳としての忠義思想が力を盛り返してきた。一方の政府は近代的改革の理論的裏づけがなく、安易に国粋主義的思想に結び付けられたのは思想方面において最も力弱かったことを示していると考えられる。日清戦争日露戦争を経験してもなお、植民地分割を食い止めるという使命を自覚しなかったことは、のちの3、40年間の日本人の失敗の元である。

(記:小西悠太 公共マネジメント学科3年)