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全人的教養を目指すゼミ@下関の活動報告です

明治維新の思想(11)

和辻哲郎『日本倫理思想史(四)』(岩波文庫)、第五篇、第八章(五、六)および第六篇第二章(前半)のまとめを掲載します。

 以下のまとめで引用されている、「日本は万国の本であり、日本の神話の神が宇宙の主宰神であるといったような〔平田篤胤の〕信仰〔狂信的国粋主義〕」は、和辻の受け入れ得るところではありませんでした。和辻の平田派嫌いは徹底しており、昭和10年の教学刷新協議会での国学者山田孝雄)の「〔前年に神祇官から格下げされて太政官下属とされた神祇省を、さらに廃止して教部省とした〕明治五年以来の日本の教育方針はことごとく間違っております」という発言をもって「平田派の国粋主義」と断じ、これが復活させられることで「最近二十年間の日本をいかに毒したか」は記憶から消し去ることはできない、としています(250頁)。

また和辻は、教育勅語第一段で、封建的君主に対する個人的関係である「忠孝」が掲げられ、忠君の名において天皇崇拝が要求されている理由を、「水戸学の残存勢力に押されたがためであろう」(309頁)と推測しています。平田派、および水戸学への反発は明瞭で、その根拠は主として合理的思考の欠如にあります。

一方、和辻は吉田松陰を評して、水戸学とはちょうど逆に、兵学者として外国の脅威に刺激されて国体の尊厳に目覚めたとしています(211頁;水戸学は国体の尊厳を出発点として攘夷論に展開した)。このあたり、市井三郎の「自覚的攘夷」(松陰門下)と「信仰的攘夷」(水戸派)との違いにも通じるものがありそうです。まとめにあるように、「軍艦で威圧された開国」と「外国の文物の摂取の必要」との区別がこうした区別の根拠となるでしょう。

「合理的判断や自覚の有無」が、総じて(個人・社会階級ベースの)「市民革命」というよりは(奇兵隊から徴兵令に至る過程に見られるように、藩の統一から国民国家の統一へと向かった)いわば「国民革命」という側面を持つ「御一新」以後の歴史の経緯を評価するための重要な指標となりそうです。和辻は、日露戦争の意義を、列強の植民地支配を押し返すことに見出していますが、その後、この意義を日本人は「充分に自覚しなかった」(259頁)と述べています。「自覚の欠如」の理由は、条約改正なども絡むなか、戦勝に浮かれ列強と同等の地位に立ったと驕るようになったことにあるのかもしれません。

このような「国民革命」における「合理的判断や自覚の有無」の問題を考えるうえでもっとも適切な思想的事例となるのが、福沢諭吉であると言えるでしょう。

 

【第五篇、第八章(五、六)】

 五 平田篤胤

 平田篤胤秋田藩士大和田祚胤の第四子として生まれる。二十歳のころ江戸に出奔して苦学するが、藩士平田藤兵衛が彼の学問への熱意を感じて彼が二十五歳の時、自分の養子とした。
 篤胤は国学四大人(荷田春満賀茂真淵本居宣長平田篤胤)の最後の一人として国学の正統を継ぐものとせられているが、これは篤胤及びその後継者が熱心に戦い取った事実であって、おのずから認められたことではない。そもそも、この四大人の説は篤胤が『玉だすき』巻九で、先行する三人を「大人」として称揚し、己の学がそれを継ぐものと主張したことに起源がある。そして、篤胤が宣長の門人であるか否かさえも、同門中では久しく議論せられていた。篤胤の『伊吹於呂志』によると彼が初めて宣長の著書を読んだのは二十六歳の時、享和元年である。その年の「秋の頃より翁のをしへに入りそめ」(『玉かつま道のしるべ』の跋より)とあるが、その同じ秋九月には宣長は没している。仮に、篤胤のいう秋の頃が秋の初めであったとしても、そのころ「をしへに入りそめ」たものが、九月までに入門などをしたかどうかは疑わしい。
 ではどのように篤胤は宣長の門人になったとされているのか。篤胤自身は夢の中で宣長から入門を許された、と主張している。そして、彼はこの夢中入門のことを本居春庭に認めさせようとした。春庭の歌の前書き(『本居春庭・太平・内遠全集』より)として記すとことによると、平田篤胤宣長を深く信じ、「いかで対面せばやとおもひわたりつるを、道のほど遠く、かつは心にまかせぬ身にて、つひにそのことなくてやみぬる」ことを口惜しく思っていた。ところが「去年の三月の末つかた」ついに夢で宣長に逢い、「をしへ子の数」に加えられたという。ここで重大なのは、篤胤が夢中入門の「去年の三月の末つかた」が宣長の生前ではあり得ないことである。対面のことが「つひにそのことなくてやみぬる」とは宣長の死によって実現されなかったという意味に相違ない。そのことを口惜しく思っていたという以上は宣長没後相当の時を経ていなくてはならない。そうしてその後の、去年の三月に、夢を見たのである。つまり、この「去年」とは最も早く見つもっても、宣長の没した翌年でなくてはならない。ということは、篤胤は宣長に入門せず、従って宣長の弟子ではなかったということになる。
 篤胤はどうして夢中にもせよ宣長の門人として許しを得たことにこだわったのか。彼の仕事には、宣長の説をそのまま祖述する面と、篤胤自身の特徴となった主張を強調する面と、その両面がからみ合っており、双方の効果を充分に発揮するためには、宣長の権威が必要であった。『呵妄書』や『古道大意』などでは、宣長祖述の面が強く現れ、いかにも自身の考えのように言っていることも、ほぼ宣長の考えそのままである。よって宣長を知らない読者は、自分に感銘を与えた力を篤胤自身のものとして受け取るだろう。これは宣長の門人から見れば、一種の詐偽である。だから篤胤も宣長の門人であり、師の思想の宣伝をしているのだと言いたかったのであろう。実際、宣長の古道を力強く世間に普及した、という功績においては、宣長の門下中彼に及ぶものはなかった。しかし、篤胤は自身の独特な思想を主張する際も、宣長の権威を利用しようとした。これが一層重要な問題であり、この独特な思想は『鬼神新論』に明白に現れ、『霊の真柱』で完成されたもので、平田神道の中枢思想となっている。宣長天皇の道を主要な問題としたのに対して、彼は世界の成り始めや、「世の中の万事の主宰神」、死後の魂の行くえなどを主要な問題とした。そして、この主張を国学の正統思想たらしめようとしたのである。
 『鬼神新論』で篤胤は儒者の合理的態度(儒者にとって天とは理であり、怪力乱神は語るべきものではない)を覆そうとした。篤胤は孔子のいう天は理ではなく、天上の主宰神と解釈したのである。そして、天上の主宰神とはわが国の古典にいう「天つ神」だと主張した。篤胤の神道説は、宣長の長所である古典の文学的研究と関係なく、宣長の最も弱い点である狂信的な神話の信仰をうけつぎ、それを狂信的な情熱によって拡大していった。この説は、当時の儒学者からは怪異妄誕の説、国学者のうちでさえも奇説として斥けられていた。しかし、篤胤は狂信的な情熱の力で多くの弟子を獲得し、日本は万国の本であり、日本の神話の神が宇宙の主宰神であるといったような信仰を広めていった。やがてこの狂信的国粋主義も勤王運動に結びつき、幕府倒壊の一つの力になったが、一方で狂信であったがために、非常に大きい害悪の根として残ったのである。

六 吉田松陰
 後期水戸学、山陽の日本外史、平田神道などの刺激のもとに、やがて勤王討幕の実践運動は起こった。吉田松陰のその転回点に立っていた思想家である。
 吉田松陰は長州萩の藩士杉百合之介の次男として生まれ、幼少の時から山鹿流兵学の家である吉田氏を継いだ。杉氏は豊かな家計ではないが、両親はともに立派な人物であって、松陰は父から四書五経素読を習うなど、養育は実家においてなされた。
 早熟な松陰は、十九歳で独立の師範となり、藩学明倫館で子弟に兵学を教えた。二十歳の時には藩の外寇手当方に『水陸戦略』を呈し、その結果、彼は海防の御手当御内用係を命ぜられ、長門の海岸を視察して歩いた。初めて国を出て九州に渡ったのは二十一歳の時で、学問に対して異常な情熱を持ち、国防の立場から外国の事情を知り、その立場の基礎として経世の原理を捕らえようとした。
 藩主の意志によって江戸に遊学させられたのは二十二歳になってからであるが、彼は江戸において、自身の烈しい情熱に応える師を見出すことができず、彼は親友の宮部鼎蔵とともに、相模安房の沿岸を踏査、さらに東北地方への旅行へ出かけた。ここで彼は藩の手続きを充たさずに出発したため、彼は脱藩したと認められてしまった。脱藩の罪は二十三歳の年の末に裁断され、御家人を召し放されることになるが、藩主の好意によって、十年間の諸国留学を許された。自由な身となった松陰は三度遍歴の途に上り、その後、江戸について佐久間象山の塾に落ちつこうとした時に、ペリーの浦賀来航の事件が起こった。直ちに浦賀にかけつけた松陰はここで西洋兵術研究が焦眉の急であると判断した。
 彼は軍艦で威圧されて開国する屈辱に堪えることはできなかったが、開国の必然性、外国の文物の摂取の必要はすでに認めていた。今や国防のためにこの摂取が緊急の必要となっており、鎖国令は吹き飛ばすべきものである。これが彼の決意であった。しかし、象山は漂流の形をとれば、法を犯さずにすむことをということを松陰に示唆したため、彼は漂流の形でロシアの軍艦に投じようと企てたが、これに失敗した。国外脱出にした失敗した松陰は、各藩の閉鎖的立場を打破して藩の間を通ずる団結を作ろうと、まずは肥後藩長州藩との間に連絡をつけることを試みた。これが後の勤王討幕運動において発展したのであった。
 翌安政元年、松陰二十五歳の時にペリーは再び東京湾に現れ、ついに和親条約は締結され、鎖国の伝統は二世紀半にして破れることとなった。松陰は即日、アメリカの軍艦による密航を決意し、同志金子重之助とともに乗船することはできたがアメリカ人は取り合わず、陸に送り返された。そして、彼らは捕らえられ重罪犯人として江戸に護送された。
 在監中でも彼の学問に対する情熱は旺盛であって、学問が将来何かに役立つか否かを問わず生きている限りはそれ自身に意義をもつと、ここに学者としての松陰を出現せしめるに至った。彼は囚人らに孟子を講義し、続いて孟子輪講会を開いた。この時の覚え書が『講孟余話』である。松陰はこの活動によって減刑を目指していたわけではないが、結果としては自身と七人の同囚の放免を引き起こした。
 出獄後はシナや日本の史書を耽読し安芸の僧黙霖の影響もあり、ついに思想上の展開を引き起こすに至る。松陰は兵学者として国防の苦心から出発し、外国の脅威に刺激され、水戸学者の国体の尊厳に目覚めたのである。これは国体の尊厳を出発点とし、外国の脅威に触発されて攘夷論に展開した水戸学派とは逆の経路をたどったわけで、彼はこの時から尊王の問題を根本の問題として動くようになった。
 松陰が討幕論を導き出すきっかけとなった出来事は、安政五年のアメリカとの通商条約締結の問題に関し、幕府は勅許なしに調印したことである。松陰の態度の変化は政情の変化を反映したものと見ることもでき、攘夷論は条約問題をたねとして、政争とからんで、幕府いじめに転化して来ていた。違勅を知るとともに松陰は『議大義』を草し、そこで討幕論をふりかざし論じた。形勢が動いていくにつれて、彼の態度はますます硬化し、ついにはみずから同志を募って、間部老中の暗殺を企てた。この形勢を憂えた藩の当局者は、松陰厳囚の命を下し、再び野山獄に投ぜられ、翌安政六年十月二十七日に江戸で死刑に処せられた。
 松陰の最後の文章『留魂録』では感傷を混じえない清澄な調子で、「今日死を決するの安心」として、人の一生には年齢の長短にかかわらず春夏秋冬の四時が備わっている。自分が三十歳で「一事成る事なくして」死ぬのはいかにも惜しいようであるが、実は四時は自身に既に備わっており、芽が出ても花の咲かない人が、花が咲いても実の成らない人がいると、己の人生を肯定して述べている。
 以上のような松陰の姿において我々は、尊王思想が討幕の実践運動に転化してくる過程をはっきりと読み取ることができる。王政復古の達成は、松陰処刑後わずかに八年目のことであった。

(記:和田裕生 国際商学部3年)

 【第六篇第二章(前半)】

 日本倫理思想史(四)第二章の明治時代の倫理思想について説明する。

 まず、明治時代の社会の特徴についてだが、明治時代は開国、封建組織の崩壊、国民国家の形成という歴史を動かした大きな特徴があった。そのような特徴を明治時代の初期にいち早く反映したのは、明六社の人々の思想である。福沢諭吉加藤弘之箕作麟祥中村敬宇西村茂樹西周津田真道森有礼、神田孝平などがいるが、この中で代表的な地位に立つ人は、いうまでもなく福沢諭吉であった。
 福沢諭吉の生涯についてだが、福沢諭吉豊前中津藩の下級藩士の末子として、大坂の倉屋敷で生まれた。漢学者の父を幼き時に失くし、家庭に余裕がなかった関係からほとんどやりっ放しであったが、14、15歳になって自発的に習学の志が起こってくると、急激に学才を発揮し始めた。4、5年のうちに経書や歴史書などを一通り学修し、左伝などは11回読み返して、面白い処を暗記していたという。数え年の21歳の時に、兄からの蘭学の勧めから大坂の緒方洪庵の塾に入塾し、オランダ語の秩序立った学習を始めた。緒方塾での2年の勉学の後に福沢は江戸に出て幕府の咸臨丸のアメリカ派遣に同行した。アメリカから帰った後に福沢はますます熱心に英語の勉強を続け、塾での教授も英書を用いるようになり、『華英通語』を翻訳して出版したのはその年のうちであった。やがて幕府の外国方に召し出されて、外交文書の翻訳に従事するようになり、その関係で幕府からヨーロッパへ使節を派遣するに際して同行することになった。帰朝後にヨーロッパでの制度や技術について著した『西洋事情』について著し、明治5年から有名な『学問のすヽめ』を書き始めている。政治的運動には関係せず、著者翻訳と子弟の教育とに没頭し、明治時代の社会の最も著しい特徴を見出した代表的な人物であった。
 ここからは先ほど少し紹介した福沢諭吉の著者について説明する。まず、『西洋事情』についてで、『西洋事情』は当時の欧米の状況を紹介したもので、政党政治、選挙、郵便、徴兵、銀行、病院などの当時の日本には存在しなかった西洋の近代的な制度や技術を数多く紹介している。討幕の志士たちが、攘夷の感情を利用しつつ王政復古に成功し、同時に開国政策に取り掛かった時、早速参考にされたのが福沢のこの書であった。
 次に『学問のすヽめ』についてで、この『学問のすヽめ』については皆も中学・高校の社会の授業等でご存じの通りであると思う。『西洋事情』と並んで福沢の著者中最も広く読まれ、その世人に大きな影響を与えた。近代の啓蒙書で最も著名で最も売れた書籍と言われ、実際に当時の人口3000万に対し、300万部以上売れたことからも日本国民の10人に1人は読んだことになる。江戸幕府の封建的組織が崩壊したばかりの日本にとって、最も痛切に響く思想が天賦人権論であるとし、それをとって封建的な階級思想を撃つとともに、学問と才能とによる自由競争に人を駆り立てようとした。福沢はこの思想をもって『学問のすヽめ』を書き始めた。その他にも人の、身の独立、家の独立、天下国家の独立を得ることに西洋の学問が必要であること、人権の平等、天賊の人権、民間の活動の重要性などを主張、赤穂義士天誅などの考えを批判している。
 最後に『文明論之概略』についてで、洋学者としての福沢の学問的著述で、文明を国民集団の主体的精神的な方面から捉え、国民一般の智徳の進歩のみが文明と呼んだ。日本人は一刻も早く西洋の文明を学び取り、西洋の国民国家の域にまで達しなければいけないと主張している。
 以上のことから福沢諭吉は数多くの著書を残し、啓蒙運動の代表的な人物として知られている。

(記:安田優斗 経済学科3年)