明治維新の思想(18)

芝原拓二『開国』から、「倒壊する旧体制」のまとめを掲載します。

 1866年6月8日に大島郡に伊予藩と幕兵が侵攻し幕・長で戦いが始まった。大島郡では一時、伊予藩と幕兵は島を占拠したがすぐに長州軍に奪還されてしまい、芸州口では長州軍が侵攻して芸州の大野で戦いが続いていた。石州口では津和野藩と浜田藩を占領し、小倉口でも小倉藩を占領した。そして、家茂の死と小倉城陥落の知らせによって幕府は朝廷に休戦の沙汰書を取り、第二次長州征伐は終わった。これは事実上の敗北だった。敗因として、この戦いで利益を得ることのない諸藩兵に戦意がないこと、諸藩主もこの戦いを支持しておらず、出兵を拒否したり勝手に兵を引き上げさせたりしたこと、民衆も幕府よりも長州を応援しており占領された地域で長州の援護をしていたことがあげられる。敗北の結果、幕府の威信と統率力のさらなる衰退がおこり、孝明天皇の死によって朝廷の後ろ盾もなくなった。
 そんな中新たな将軍となった徳川慶喜は最後の幕政改革に取り組み始めた。慶喜の改革では、大きく分けて二つの改革があり、軍制改革では新施政方針8か条の提示とそれに準拠した改革が行われ、陸海軍の装備もフランス式の新しいものに革新されていった。行財政改革では、それまであいまいな月番制と合議制だった老中制度の責任を分担化し、首相格、外国事務総裁、国内事務総裁などの役職を新たに決めていった。さらに封建年貢に加え家屋・屋敷地への土地税、6種の営業税、酒税、たばこ税、茶・生糸への課税、船税などを導入しようとし、その他に貿易の統制と独占をした。これらの改革は全てフランスの指導と借款に依存していた。これは傀儡的な関係であり、半植民地化の危機と言えたのである。
 倒幕と大政奉還の動きも進んでいた。兵庫開港問題に対する四侯会議の失敗により、幕府は朝廷に兵庫開港の勅許を得ることに成功した。これは薩長の倒幕運動を後押しすることになった。薩長の倒幕路線とは別に土佐藩内では別の動きがあった。当時の土佐藩では尊攘派が一掃されて公武合体派が主流になっていた。土佐藩坂本龍馬による船中八策案を採用する。これは大政奉還をして公議に基づく政治を行うことを目標としていた。武力倒幕派がなぜこの大政奉還論に反対の姿勢を示さなかったのかと言う理由は、倒幕派の長期的展望として公議政体・封建連邦の設立が目標としてあったからでこれは、大政奉還・列侯会盟論とあまり相違がなかったものだったからである。この考えは薩土盟約7か条の締結を後押しした。
 武力倒幕派薩長芸3藩の武力倒幕同盟を形成し、朝廷内では王政復古のための画策が行われていた。一方の大政奉還派は土佐と、藩内の世論が倒幕一辺倒になるのを警戒した芸州の藩主がそれぞれ大政奉還建白書を幕府に提出して、他に幕府の状態を打開する方法がない幕府はこれを受け入れた。芸州は両方に名前が挙がっているが、これは芸州としては大政奉還を幕府に勧めておいて、これを幕府が拒否した場合には武力による倒幕を考えていたからである。そして倒幕の密勅降下と同日に大政奉還が行われ徳川幕府は終焉を迎える。このため倒幕派の名分が消失し、倒幕の実行も朝廷から猶予の命令が下り、新たな討幕方法の模索を始めるに至り、旧幕府勢力は将軍権力の新たな再編へと動きを始めた。そして、王政復古の宮廷クーデターから戊辰戦争に至る明治新政府の設立につながった。
 最後に、なぜ徳川幕府は崩壊したのかという問いに対し、作者は国内の民心・公議・輿論を抑制する専制国家が威信を保つためには対外的に「全国の保護者たるの責任」を果たす必要がある。対外的に屈辱を重ね、なおかつ経済・政治・軍事のあらゆる面で民衆の独立を妨げ、民衆の生活を破壊し、公議・輿論を抑えていた徳川政権は威信を失墜し倒れるべくして倒れたと述べて締めくくっている。

記:小西悠太