明治維新の思想(17)

芝原拓二『開国』から、「敗退する尊王攘夷運動」のまとめを掲載します。

  1863年、京都の五条市の幕府代官所が襲撃された。一党は近隣の村役人を集め挙兵したのである。挙兵の趣旨として、天皇の攘夷親征の先鋒をつとめるとしている。この大和五条の変は「義挙」の始まりであった。このクーデターは農民たちを利用するために天皇親征の先鋒と偽ったので、農民は話が違うと軍が総崩れとなった。このクーデターからわかることは、農民を利用できる社会的立場か高い人たちのクーデターだったことである。しかし、諸藩の保護を求めず狂信的な自己主張に走ってしまった社会的孤立はおおうべくもなかった。
 同年、但馬生野の変が現在の兵庫県で起こった。これも農民を「義挙」として利用することは一致したが、このクーデターの指導部が脱走し農民は激怒、尊攘の「義挙」は農民反乱によってあっさりと粉砕された。そればかりか、尊攘の「義挙」が百姓一揆へと転化したのである。
 一方、朝廷は1864年、クーデターが落ち着きを見せたところで国事を義するために諸藩の上洛を促進させた。そして、幕府と雄藩大名を集めて参与会議をおこなった。参与会議が抱えていた重要問題は横浜鎖港問題と長州藩処分であった。後者の処分の意見は一致したが、前者の問題は意見の対立が激しく、平行線をたどった。結局なんの成果もないまま参与会議は瓦解したのである。これは、次々と失敗するクーデターによる幕威の回復をおおきく遠ざける結果となった。
 クーデターは近畿だけでなく、北関東でもあった。1863年真忠組が挙兵した。これはすぐに鎮圧されたが、他のクーデターとは大きく異なる点があった。それは真忠組の首領は農民の人望を集めていたことである。つまり、他の過激派と比べ農民の救済を目的とし、それゆえ村々の信望を繋いでいた点に大きな特徴をも持つ。
 1864年水戸藩尊王攘夷派によって引き起こされた天狗党の乱により、これまで「国事」に決起したはずの「義挙」は、幕府・門閥連合軍と激・鎮両派連合軍との間の露骨な権力闘争に転化していった。民心は反門閥軍から離れ、門閥軍の勝利に終わった。民心は皮肉にも、最も保守的な門閥軍を利する結果となった。
 参与会議の瓦解で勢力挽回のチャンスとにらんだ長州藩は、高杉晋作桂小五郎の反対を押し切り上洛を開始した。また、池田屋長州藩士たちが新選組に襲撃された変報がもたらされ長州藩系の激派は次々と上洛を命じた。長州軍はついに洛中に向かって動き始め禁門の変が起こる。一時、長州軍は御所内まで突入したが応援の薩摩、桑名藩兵らによって撃退、残りの戦力も殲滅された。こうして西南の激派は禁門の変でリーダー全てを失って壊滅した。これを契機と捉えた幕府は長州に攻め入るため、出撃命令を出し、準備を整えさせた。
 尊王攘夷運動運動に参加した志士について詳しく述べる。攘夷の志士は『贈位諸賢伝』によれば900人のうち、武士がほとんどを占め尊王攘夷運動がどこまでも支配階級たる武士のものであることがわかる。また、尊王攘夷運動のリーダーは若いイメージがあるが実際には25歳以上がほとんどである。尊王攘夷運動には武士の他に村役人や豪農商層が参加しており、改革から倒幕までの主体をブルジョワ的要素の成長の政治的表現として評す維新研究家がいる。しかしそういう見方を疑問視する意見もある。そもそも尊攘派の歴史的契機は日本が植民地になるかもしれないという対外危機である。既成の権力体制による保護にも安住し得ない下士層・村落支配者層の不安や苛立ちが尊攘運動を過激にし、単独決起させた。彼らは社会的に非創造的で孤立していたため、現存の封建的な支配秩序そのものを変革し新たな社会秩序を構想し、かつ創造することはできないのである。従って、尊攘運動の主体はブルジョワ的でない、という見解である。のちに彼らのエネルギーは、幕藩領主層の権力再編をめぐる抗争の中で、その権力闘争の突撃隊に組織された時、初めて威力を示すようになる。最たる例が奇兵隊であり、それが、幕・長戦争や倒幕の運動エネルギーになるのである。

(記:鄭 東鎬)