明治維新と自力工業化(2)

石井寛治『明治維新史』より第6章「廃藩置県への苦悩」のまとめを掲載します。

 廃藩置県への苦悩

森本浩暉(経済学科3年)

アンバランスな近代化政策
・五箇条誓文の発布
・宗教統制と弾圧
・なしくずしの東京遷都
版籍奉還の実施
・金札で埋める赤字
・電信と鉄道
・お雇い外国人の活躍
開明派官僚の結集
抵抗する士族と農民たち
・強まる藩統制
・諸隊の反乱
・千人迄は殺すも咎め
・藩財政は火の車
世直し一揆尊攘派士族
薩長藩閥官僚のクーデター
・山県、井上の提言
廃藩置県の断行
・地方時代の終わり


アンバランスな近代化政策
・五箇条誓文の発布
1868年3月14日、明治天皇が維新政権の基本方針とする五か条誓文を発布した。同時に、天皇親政と開国進取をうたった宸翰もだされた。閏4月21日には、誓文に沿った政体書が公布され、官制改革が実施された。大久保利通木戸孝允ら維新官僚は、天皇を政府の頂点に位置付けることにより、全権力を政府=太政官に集中しようとした。

・宗教統制と弾圧
五箇条の誓文が発布された翌3月15日に太政官五榜の掲示を掲げた。五榜の掲示の第三札がキリスト教禁止の継続の宣言であり、維新政権の本質にかかわる重大な意義をもっていた。維新政権は、天皇親政の維新政権が国民を支配する正当性を、天皇制神話のイデオロギーにもとめるしかなかったため、「祭政一致」の方針を宣言した。
政府当局は、神道の国教化をはばむ最大の敵は、仏教ではなくキリスト教であると考えており、キリスト教にたいしてきびしい弾圧を行った。

・なしくずしの東京遷都
天皇・朝廷を頂点にいただく維新政権が、徳川幕府にかわり、列強の圧迫に対処する中央権力として活躍するためには、大幅な宮廷改革の断行が必要であった。大久保利通は、京都から大阪への遷都を建白したが、旧幕臣前島密らは、市街が狭小な大阪よりも、広々とした江戸への遷都論をとなえ、大久保もそれに傾いた。政府は江戸を東京に改称し、慶応を明治と改元するとともに、一世一元の制を定めた。
そして、「東幸」のために、天皇は京都から東京へむかい、江戸城を東京城と改称した。東京城を皇居と定め、一応の目的をはたし、京都へもどっている。一挙に東京遷都を実現することは、公家や京都市民の反対できびしかったのであろう。翌2年、天皇は、ふたたび東京へむかい、東京城にはいった。それにともない、政府諸機関も次々と東京にうつり、皇后も東京にうつった。こうして、東京遷都はなしくずしに実行されたのである。
版籍奉還の実施
  1868年、太政官政府は、地方制度をあらため、府・藩・県の三種類とした。諸藩において、戊辰戦争がすすむにつれて大きな変化が生じつつあった。軍事費の負担は、藩財政を極度に悪化させ、収奪強化が領内民衆の抵抗をまねき、鉄砲中心の戦闘は、藩主・上士層の権威を失墜させた。彼らの地位を維持するために、中央政府によるてこいれが必要だった。
  こうした動向を見すえて、明治元年木戸孝允は、大久保利通版籍奉還論を説いたところ、大久保は同意した。明治2年には、版籍奉還の上表文が提出され、藩の諸侯たちは、次々と奉還をねがいでた。
  東京を中央集権国家の首都へおしあげるために、集権化の核となる政府本体の強化を行った。大久保利通は、高官公選を実行し、10名からなる首脳部を形成した。
  木戸らは、世襲ではないかたちで藩主たちを自藩の知藩事を任命する方針を主張した。それと同時に公卿・諸侯をともに華族と改称し、藩士は士族とするよう指令がだされた。また、知藩事の家禄は現石(藩収入)の十分の一と定め、藩庁諸経費と明確に分離させた。こうして、廃藩にむけての重要な第一歩が踏みだされた。

・金札で埋める赤字
  維新政権の最初の経済政策は、由利公正が提唱した金札(太政官札)の発行と貸下げであった。問題は、この金札が三都以外でなかなか流通せず、流通するさいも額面を大きく下回ることであった。不換紙幣であるうえ発行元の政府の信用が乏しいとなれば、当然の現象といえる。開港場では、政府・諸藩の鋳造した、悪質な二分金・偽二分金が外国公使によって問題とされており、かれらは金札については、その額面における納税をもとめてはげしく政府にせまった。こうして、政府は明治元年に金札の時価通用を公認し、納税も金札120両=正金100両の公定相場によるものと定めた。
  大隈重信は金札の発行制限と近い将来における正金との兌換方針を発表し、時価通用を再禁止するが、正金が必要な開港場では混乱が再発した。そこで、三都の金札をひきあげて、府藩県に一万石あたり2500両ずつ割り当て正金とひきかえるという政策をとり金札に全国的流通性を付与しつつ時価回復をはかった。藩札の増発を禁止する布告もだされ、通貨面での全国統一がすすみ、金札は正金並みの価格で全国的に流通するようになった。

・電信と鉄道
  開国進取の方針をかかげた維新政権は、欧米諸国からの先進技術の移植についても積極的であった。西欧機械文明の威力をまざまざと見せつけたのは、特に電信と鉄道の導入である。最初の電信業務は、明治2年に横浜の神奈川県庁と東京の築地運用所にそれぞれおかれた伝信機役所のあいだで開始された。5年には関門海峡に海底電線が沈められ、6年には、東京―長崎間の交信が始まった。
  鉄道官設を政府が決意した発端は、アメリカ公使館員A・L・C・ポートマンが旧幕府老中小笠原長行から得た江戸-横浜間鉄道の免許状の承認を求めてきたことにあった。新橋―横浜間鉄道の工事は、建築師長E・モレルの指揮下、3年に開始された。4年から横浜―神奈川間、ついで横浜―川崎間で試運転が行われた。モレルは過労でこの直後に死ぬが、さきのカーギルが総責任者となり、工事は順調にすすめられ、5年ついに新橋―横浜間鉄道の開業式が盛大に挙行された。

・お雇い外国人の活躍
  政府は、鉱山開発にも意を注ぎ、F・コワニーを雇って佐渡銀山や生野銀山などを官収し採掘した。次に、E・A・バスティアンによる富岡製糸場設計図ができあがり、4年に工事が始まった。5年に模範官営製糸場が蒸気動力により動き出した。
  維新政権による機械文明の移植は、外国人による直接投資の圧力をうけながら、機械整備とそれをうごかす機械技術だけを導入し、外国人の経営支配を極力排除するかたちでおこなわれた。

開明派官僚の結集
  会計官=大蔵省にあつまった開明派官僚は、こうした近代化政策を先頭にたって推進しが、参議佐々木高行、大久保、広沢、副島らは、大蔵省開明派の急進策に批判的であった。財源不足のなかでの急激な近代化投資は、直轄府県の農民への負担のしわよせをうみ、守旧派尊攘派士族の不安を高めずにはおかない。その対処をめぐって、維新政権内部抗争も強まり、再編強化の途が模索されることとなる。

抵抗する士族と農民たち
・強まる藩統制
  版籍奉還廃藩置県の重要な第一歩であったが、維新政権は廃藩置県を見とおして版籍奉還をおこなったとみることはできない。政府首脳は、4年の段階においても廃藩置県を提議するに至っておらず、藩体制そのものを維持しつつ中央政府による統一を強めようとしていた。
  3年に、勅使岩倉が大久保、木戸をともない、西郷を上京させ、薩長土三藩の献兵による親兵8000を東京に集結させたのも、中央政府の改革・強化であり、廃藩置県を目的としたものではなかった。
  このように、政府首脳が廃藩の具体的構想をなかなかもつにいたらなかったことは、雄藩の軍事力に依拠してようやく権力を得た経緯ひとつを考えても当然といえる。彼ら自身が出身藩との絆を脱却して、大きな決断と飛躍が必要であった。それをかれらに強要したのは、近代化政策の推進とそれにともなう負担の増大にたいする民衆の抵抗の高まりであった。廃藩へのプロセスは、権力と民衆のはげしい対抗に満ちた苦悩の道だったのである。

・諸隊の反乱
  兵部大村益次郎は陸軍士官の養成など、藩兵解体後を見こした兵制近代化をおこなっていたが、明治2年、元長州藩の刺客によりおそわれ、重傷を負い、その後死亡した。大村をおそったのは、攘夷主義者一団であった。斬奸状には大村が「専(もっぱら)洋風を模擬し神州之国体を汚し」たことを批判していた。
戊辰戦争に出兵した諸藩では、復員した兵士の処遇が大問題となっていた。とくに薩長両藩は最前線で奮闘し、死者数が他藩の200人台と比べ1000人前後だっただけに、恩賞への期待も高かった。ところが、長州藩の場合、待ち受けていたのは大幅な人員整理であった。この整理は、同藩財政上の必要から生じただけでなく、藩に忠実な軍隊へと再編するためでもあった。
  2年、長州藩軍事局は諸隊の一つ遊撃隊を除いて常備軍の選抜を始めたため、いきどおった遊撃隊士など諸隊の兵士約1800人が脱退した。翌3年1月をかけて、脱退兵と藩庁の対立は激化していき、脱退兵士は、農民一揆とも連絡をとりはじめておおいに意気が上がった。脱退兵士は、藩庁を攻めたが、藩側の木戸の機敏な対応により、敗北した。
  こうして政府の兵制改革は、長州藩の中に芽生えていた民主的、国民軍的要素を抹消、排除しつつ進行していく。

・千人までは殺すも咎め
  明治2年に、大蔵省が民部省を事実上合併したことは、民心を安定させるべくつとめてきた姿勢の否定を意味した。金札発行を停止させた以上、貢租収入だけが頼りであり、なんとしても増徴をのぞんでいた。
政府は「府県奉職規則」を制定して、中央からの統制を強化した。明治2年は全国的に凶作であったことから、各府県の地方官は対策に苦慮し、民部・大蔵省とのあいだに緊迫したやりとりが続発する。問題は、凶作に苦しむ農民にたいして、ひたすら近代化政策を必要な貢租を課しつづけようとする大蔵省の強硬な姿勢にあった。その強硬さは大隈が「千人迄は殺すも咎めざるべし」と指示したといわれる点に端的にしめされている。こうした姿勢にたいして、地方官から次々と批判が寄せられた。なかでも有名なのは、松方正義による批判である。松方を代表される地方官の批判は、前民部大輔の参議広沢真(さね)臣(おみ)のもとへあつめられ、民蔵分離を強く主張するようになる。広沢は、大久保・副島種(たね)臣(おみ)・佐々木高行の三参議とともに辞表を提出して三条実美岩倉具視木戸孝允に圧力をかけ、ついに「民蔵分離」を実現させた。
 だが、大蔵省の政策が変更されたわけではなく、租税司を民部省へうつそうとする大久保の画策も成功しなかった。それゆえ、大蔵省と地方間の対立は解消しないまま、政府は農民一揆に直面することになるのである。

・藩財政は火の車
  直轄地府県からの収入不足に悩む大蔵省は、諸藩財政に介入し、政府への資金吸い上げをはかろうとした。しかし、当時の諸藩の台所は借金だらけの火の車であり、政府の原案である藩収入9%の納付は半額に削られた。
  藩政が藩札増発を厳禁したままで藩債の償却をもとめるや、諸藩はかつない財政危機に見舞われた。下層士族卒の家禄は、最低生活すらささえられないほどであった。
  こうして極度の財政難から、13の藩が自発的に廃藩への道を選んだのである。諸藩サイドの財政面から見るかぎり、廃藩への客観的条件は熟しつつあったといってよい。

世直し一揆尊攘派士族
  だが、財政面の苦しさは中央政府においても同様であった。したがって、廃藩置県をすれば、財政難がおのずと解消すると考えるわけにはいかなかった。
  明治3年に民部省と分離されてからも、大蔵省は直轄地からの貢租増徴につとめた。東北諸県では、厳重な貢租とりたてがなされ、農民は衣類・家具を売り、田畑を質入れしてまで上納につとめねばならなかったという。
  こうした増徴策にたいし、各地で一揆がおきた。3年におきた九州の日田県での大一揆にさいして、尊攘派士族による扇動がなされたとの風説がとびかい、木戸孝允は、兵部省直属の「天兵」を派遣して弾圧をおこなった。風説ではあったが、政府は反政府的な士族グループと世直し一揆との結合をもっとも恐れていたのである。3年末から4年はじめにかけての農民闘争の全国的高揚は、世直し一揆のひとつの到達点をしめすものといえる。
  政府がおそれていた尊攘派士族の反政府運動は、テロ活動を通じて政府首脳に深刻な脅威をあたえた。4年に参議兼東京府御用掛広沢真臣が暗殺され、首脳部を震撼させた。
  以上のような農民と士族たちのはげしい反政府行動に対する対応が薩長土三藩による親兵の東京集結であり、廃藩決行をささえる重大な条件となった
  
薩長藩閥官僚のクーデター
・山県・井上の提言
  山県有朋井上馨から、中央集権化して財政をたてなおすため廃藩置県を断行すべきであるとの提言がなされた話の発端は、兵部省出仕(しゅっし)鳥尾(とりお)小弥(こや)太(た)と野村靖(やすし)が山県に廃藩をせまったことにあった。
  4年に三藩親兵が集結しおわったにもかかわらず、政府改革いっこうにすすまなかったことは、親兵8000の維持費の捻出が困難になったことを意味した。のこされた道は、廃藩の断行による全国貢租の中央集権と政府予算の抜本的再編をつうじて、維持費をひねりだすしかない。親兵8000の存在は、廃藩置県を可能にならしめた条件であるとともに、それを要求する直接的契機でもあったのである。

廃藩置県の断行
  山県は、井上薫、木戸、西郷、大久保をたずね、廃藩について了解をとりつけた。こうして薩長両藩実力者の秘密の会合が開かれた。この会合で、もしも廃藩置県の断行に反対の藩があれば、武力鎮圧も辞さないことが決定された。
  三条実美岩倉具視には、計画全般が練り上げられてはじめて、報告がなされた。そして、参朝した知藩事一同にたいし、廃藩置県詔書がくだされたのである。
  261藩の存立を一挙に否定し、廃藩置県のクーデターは、ほとんど無抵抗のうちに完了した。

・地方時代のおわり
  廃藩置県によって維新政権はようやく中央集権的な統一国家へと転換した。