明治維新と自力工業化(3)

石井寛治『明治維新史』より、第二章「反動の嵐と始まる貿易」のまとめを掲載します。

1.朝廷の政治的浮上
 日米修好通商条約の勅許を求め上京した堀田正睦の、勅許を簡単に得られるという予測は、朝廷の強固な攘夷路線の固持によって覆されることとなった。このことは幕府本来の姿である、政治の実権は幕府が握るという体制から見れば信じがたいほど朝廷の政治的権限が増大したことを示している。しかし、この朝廷の政治的浮上は朝廷や天皇自身に根拠があったわけではない。ペリー来航以降の対外的圧力に単独で対処できず、外様大名まで含めた挙国一致の体制をつくろうとした幕閣の姿勢こそが諸大名の発言力を増すとともに、新たな政治的焦点として朝廷を浮上させたのである。
 他方、水戸藩長州藩薩摩藩土佐藩といった雄藩は天保の改革安政の改革において人材登用や財政改革、軍制改革をすすめ、結果、橋本左内や西郷吉之助といった新進気鋭の藩士を政局の中央に送り込むことに成功している。これに対し、佐幕派の諸藩は藩政改革でこれといった成果を上げることができていない。
 また、これら財政改革を行った雄藩に限らずこの時期、地方の多くは特産物生産が展開されており、各府県の全産額に占める工産物産額(食料品、繊維品、油類、紙類)比率が、20%未満の純農業地域は意外に少ない。このことは三都に代表される工業地帯をのぞく農村地帯においても、活発な工業生産が市場目当ての商品生産としていとなまれていたということを示唆している。
 従来、幕府は大阪を中心とする畿内先進地を天領として掌握し、長崎における外国貿易を独占することによって諸藩を経済的にも支配しようとしてきた。しかし、その力は雄藩の経済力増強によって相対的に弱められ、さらに自由貿易の開始によって決定的に低下させることになった。

2.通商条約調印と反動の嵐
 安政5年4月23日、将軍家定によって彦根藩井伊直弼大老に任命された。大老に就任した井伊は諸大名へ勅許が得られなかったことを説明し、あらためてそれぞれの意見を提出させるとともに、ハリスに条約の調和延期をもうしでた。ハリスはそれをのんだものの、6月13日、英仏連合軍が清国を屈服させ、近く大艦隊を日本に差し向けるかもしれないことを知り、幕府へ伝えた。江戸から派遣された井上清直と岩瀬忠震は、英仏艦隊が来航する前にハリスと調印したいと考えていたため、ハリスから将来必要があれば英仏との間の調停をするとの保証書を得て江戸に戻った。井伊大老は勅許を得てからの調印を主張したが、ほとんど支持者がなく、井上と岩瀬は、井伊から延期交渉が実を結ばぬさいは調印やむなしの言質を取り付けていた。そして、両名は延期交渉ぬきで、直ちに日米修好通商条約に調印した。このあと、一か月のうちにオランダ、ロシア、イギリスとの修好通商条約が結ばれ、9月3日にはフランスとの条約も調印された。
 条約調印の直後、井伊大老堀田正睦にその責任をおしつけて老中を罷免し、自らの大老就任の功労者松平忠固をも罷免して、実質的な井伊独裁政権を確立した。そして、大老の違勅調印を責めるとして、定例の登城日でもないのに城内に押し入った松平慶永徳川斉昭尾張藩徳川慶勝水戸藩徳川慶篤一橋慶喜らに対し、謹慎や登城停止の処断を断行した。一橋派への大弾圧の開始である。他方、京都では孝明天皇が激怒し、「帝位ヲ他人ニ譲リ度決心候」との勅書をしめすほどであった。こうして、水戸藩にたいし勅諚(戊午の密勅)が降下される。その内容は条約調印を批判するとともに水戸・尾張両藩主への処分への影響を心配するというもので、一橋派の巻き返し策と連なるものであった。
 事態を幕府の危機とみた井伊大老は反井伊派への全面的弾圧へと踏み切っていく。安政の大獄の始まりである。多くの志士・藩士、逮捕され、死罪や獄死などの過酷な断罪が行われた。攘夷派公家も辞官や謹慎、落飾(出家)に処せられた。この大量処罰は、ただちに激しい反発をよんだ。安政7年3月3日、水戸藩の関鉄之助を中心とする総勢18人が、節句の賀詞をのべに登城する井伊一行を桜田門外で襲撃。井伊を暗殺し、その強権的幕政は2年足らずで終わりをつげた。井伊大老の政治は外圧のもとで崩壊しつつある幕府の旧い部分がみせた断末魔の痙攣というべき政治反動であった。そしてその政治反動のもとで、幕政体制そのものを掘り崩す自由貿易が始まっていたのである。

3.開港場へつどう人びと
 通商条約にもとづいて、安政6年6月2日、神奈川・長崎・函館の三港が開かれた。三港のうち最大の貿易港となる神奈川では、他の二港とことなりまったく新しい港をつくらねばならなかった。幕府は東海道の宿場である神奈川宿は日本人と外国人の接触が多くなりすぎて危険だと考え、港湾として優れている近くの横浜村を開港地として選んだ。公使となったハリスは幕府が長崎の出島のように外国人を管理しようとしていると反対したが、幕府は計画を押し進めた。イギリス総領事オールコックはハリスと同調し、神奈川宿の近くを主張した。そこにオランダ領事もくわわった強い要求に幕府は屈して、居留地は神奈川地域に設けることがきまったが、肝心の外国商人は横浜のほうを好んで定着したため、最終的には外国代表も横浜居留地を正式に承認した。
 開港当初の横浜に乗り込んできたのは、中国や東南アジアにおける貿易で利益を蓄積し、長崎においても多かれ少なかれ、取引きの経験のある商社が中心であった。彼らは自己勘定=見込み取引きで成功して富を蓄え、自己の持ち船に商品と洋銀を満載して日本へ送り出す実力を持っていた。しかし、時がたつにつれて若い外国人が横浜や長崎にやってきて、主として手数料目当ての取引きをおこなう中小商社を開業するケースも増加していった。文久3年にイギリス系のセントラル銀行とマーカンタイル銀行が支店を設け、翌元治元年P&O汽船会社が上海―横浜間の定期航路を開設するようになると中小商社の活動はますます容易に、活発になるのである。オールコックが横浜居留地社会をさして「ヨーロッパの掃溜」と酷評した事態には、一面には巨大商社にかわって中小商社の進出があった。本国の古い伝統や格式に縛られて実力を発揮できない人たちにとって、日本各地の居留地“自由と平等”に満ちた解放空間であった。もっともこの“自由と平等”が、領事裁判権にもとづく「白人社会」の特権を基礎にしていたことはいうまでもない。
 一方、外国人と取引きするために横浜につどった日本商人は、幕府にすすめられ出店した江戸商人が中心であった。そのなかには大商人の出店がないことを危惧した幕府による特別の要請うけた三井家も含まれていた。輸入品の多くは独立開店した江戸商人によって旧来の流通経路にのせられていき、かれらは輸入品取り扱いによって旧来の都市問屋をおいあげ、一挙に凌駕するのである。横浜財界の中心をなす生糸売り込み商の主たる出自は江戸商人でなく、生糸生産地から横浜につどってきた地方商人にもある。上野・武蔵両国からは、亀屋原源三郎・野沢屋茂木惣兵衛・吉村屋吉田幸兵衛といった著名な生糸売り込み商があらわれた。
 横浜につどってきたこれら日本商人は、いずれも居留地に店を構える外国商人との取引きをするにとどまり、自分で外国までかけて貿易をいとなむ力はまったくなかった。他方、外商の中には、日本人の番頭や商人を雇って、条約で禁止されたはずの内地通商をこころみるものもかなりあった。そうしたことを考えると、横浜居留地での取引きが、多数の日本人売り込み商、引き取り商の参加によってスムーズに行われるようになることは、外商が内地へ侵入すること防ぐ意味合いをもっていた。

4.金貨流出からインフレへ
 横浜運上所においてオールコックは1ドル銀貨一個と引き換えに、予期していた一分銀三個ではなく、二朱銀という真新しい貨幣を二個あたえられた。この二朱銀は外国奉行勘定奉行水野忠徳が日本金貨の流出を防ぐために発案した新貨幣だった。ハリスは日米修好通商条約において幕府が内外貨幣の同種同量交換と日本金銀貨の自由輸出を認めたため驚いた。それは1ドル銀貨1個(27g)=一分銀3個(計26g)の交換が成り立ち、一分銀貨4個=一両金貨、一両金貨を上海などへ持ち出すと一両=洋銀4ドルで売却できたため、当初の洋銀一個をおよそ4倍にすることができるためである。これでは一両金貨が外国へ次々に持ち出されることはあきらかであった。この4倍のからくりには日本の金銀比価が外国とくらべ1.5倍の高さだったこと、一分銀は含有する純銀の2倍の価値を幕府から付与された事実上の補助貨幣であったことが影響していた。つまり幕末の日本は金銀複本位制を脱して金本位制に進みつつあったのに、依然として金銀複本位制であったアメリカとの差異が引き起こしていたのである。
 新二朱銀は銀含有量が一分銀の8.6gから13.5gに引き上げられていたが、その価値は二朱銀2個=一分銀1個であり、つまり一ドル銀貨1個(27g)=二朱銀2個(計27g)=一分銀1個(一両金貨4分の1)となるため、一両金貨は上海などで取引きした場合と同じく1ドル銀貨4個を必要とするようになったのである。これでは外国への運輸費分だけ損するようになり、国内金貨の流出を防ぐことができる。
 だが、この新二朱銀には重大な欠陥があった。国内では従来の一分銀が依然流通しており、度重なる貨幣悪鋳によって財政収入を賄ってきた幕府にはそれらにとってかわり二朱銀を流通させるほどの経済力はなかったのである。結果、二朱銀は横浜居留地内でのみ流通する特殊通貨となり、これでは洋銀価値引き下げの手段と批判されても仕方なかった。結局、幕府はオールコックとハリスの強い抗議に屈し新二朱銀の廃止することとした。
 幕府は新二朱銀廃止後も一分銀の供給を制限したが、8月下旬から洋銀を改鋳した一分銀が大量に供給されるようになると、幕府が10月17日の江戸城本丸の炎上を口実に供給を再び大幅に抑える2か月のあいだ外商による金貨あさりが最盛期を迎えた。10月初め頃の外商は金貨あさりに狂乱状態に陥り、競って巨額の一分銀を要求した。これにはオールコックらも、金貨投機が正常な貿易を阻害することを心配し始めた。金貨投機を抑えるためには金銀比価を国際水準へ修正しなければならない。銀貨良鋳による修正ができない幕府は金貨悪鋳しかないと考え、各国代表と相談のうえ安政7年1月20日、おって改鋳するまでは天保小判1両を3両1分2朱とすることを布告し、これにより金貨流出は終息を迎えることとなった。このあいだに国内から海外へと持ち出された金貨の額については100万とも、あるいは少なく10万ほどであるともいわれているが、重要なのはこの金貨流出への対策が幕末の爆発的なインフレーションを引き起こす起爆剤となったことである。
 開港直後から上昇し始めた諸物価は、上下の波を描きつつも幕末をつうじて激しく上昇した。銀目表示の大坂卸売物価は、安政6年から慶応3年までの8年間に6.6倍までになっている。太平洋戦争末期から戦後復興期にかけての猛烈なインフレにつぐ、物価急騰だった。その一因には、当時の人々が考えたと通り、開港場での自由貿易の展開があった。貿易は連年大幅な出超を記録した。輸出品を代表する生糸の横浜価格は当初、イギリスやリヨンの半値程度であったのが80%程度の水準に収まりつつも上昇を続け国内物価を引き上げた。他方、輸入品は幕末には競合する国産品の価格を引き下げる力は乏しかった。
 しかし、それにも増して所謂、万延の貨幣改鋳が物価に与えた影響は大きなものであった。天保小判の歩増通用として鋳造された万延小判および一分判は、天保小判1枚=万延小判3枚強で取引され、金貨をもつ商人の資産を膨張させた。そして増加した金貨がつかわれた結果、物価が上昇するわけだが、この万延金貨と一分判はあわせて62万両ほどしか鋳造されなかったため物価上昇の要因としては弱いほうである。持続的な物価上昇の最大の原動力は幕府が貿易出超によってだぶついた洋銀を買い上げ改鋳した大量の万延二分判であった。これは明治2年までに5000万両も鋳造され、その金含有量は金貨より圧倒的に少ないにも関わらず額面通りの価値で旧貨幣とも交換されたため、幕府は莫大な改鋳利益を得ることができた。こうして幕府の財政支出の増大というルートをへて、持続的な物価上昇が生じたのであった。

5.感想
 日米修好通商条約を締結させた井伊直弼大老任命は、大奥の権力争いが背景にありその意味ではこの時期の幕府の無能の発露であったかもしれない。しかし、井伊大老が強硬な攘夷路線を掲げる朝廷や雄藩の意向を無視して強引に条約を締結させたことにより、日本は否応なしに外国と向き合わざるを得なくなり、結果として国際国家への道筋に貢献したともいえるのではないだろうか。もしこの時の大老がもっと朝廷の顔色を伺うような人物であったならば条約締結はもっと遅れていたかもしれない。そうなれば各戦争から回復した諸外国が余裕ある軍事力でもって日本を植民地としていたかもしれない。そう考えると歴史というものは、実に様々な人々の思惑や行動が複雑に入り混じって作られてきたのだということを感じる。

記:神寳玲於奈(経済学科3年)