明治維新の思想(16)

芝原拓二『開国』から、「開国通商の波紋」のまとめを掲載します。

  これから、『日本の歴史 第23巻 開国』の「開国通商の波紋」について見ていきたいと思う。

 開港場ヨコハマを例にとると条約で規定された神奈川を調査した結果、東海道の要路の上、土地が狭く海は遠浅であるため二里ほど南方の貧しい漁村横浜村に開港場を設営しはじめるが、ハリスらは条約違反だと抗議することになるのだが、各国代表は幕府に抗議、各国商人の横浜移住を禁止するも日本の役所や商人の店舗が集中している下では、外国人商人も便宜のため移住、英・仏・蘭は折れ、領事館を移すもハリスだけは神奈川本覚寺から動かなかった。

 居留地の外商は一攫千金を夢見た山師的な荒者が多く、無秩序で無頼な様相を呈していたため、当時の横浜の外国人社会は「ヨーロッパのはきだめ」と称されることとなる。しかしながら、数は少なくないが、巨大な組織を持つ商社・銀行・海運会社も存在していた。例を挙げると、商社ではジャーディン=マジソン商会、ウォルシュ=ホール商会、ギルマン商会、バターフィールド=スワイアー商会など、銀行は、オリエンタル=バンク、チャータード=マーカンタイル銀行、香港上海銀行など、海運は、P&O汽船会社、太平洋郵船会社、帝国郵船会社などがあった。

 彼ら居留地の外商達は、条約により領事裁判権で保護されていた。居留地行政のため、米・英・蘭の3国の領事は神奈川地所規則を成文化し居留民に守らせた。これにより居留地は事実上の外国共同の領土と同じになった。また、居留地の拡大を前後し第二第三の地所規則が制定されていった。

 貿易が開始されると、開港の翌月には交易願の手続きを経た正規の貿易商店が99軒、他の小商人や役人宅などを含めると3000軒になり、2年半後には正規の貿易商店は290軒に達しており、外国商館も含めて横浜が急速に国際商業都市に成長していった。

 条約の貨幣条約によって、外貨の国内自由流通、そして内外貨・地金銀(インゴット)の同種同量交換や自由輸出入が規定されていた。そのため幕府は一分銀と洋銀の交換比率を定めた。国内では一両=四分の四進法を採用していたが、ここに問題が潜んでいた。それは、金銀比価の国内と国際的な差である。この差が投機を起こし、国外への金の流出を引き起こした。止めるために金の国際的な平準化を行ったが、これが物価急騰の一因となる。

 物価急騰の誘因は、金流出と貨幣改鋳の問題にとどまるものではなく、輸出商品は、国内でも軒並み急騰した。交易された主要商品は生糸・茶・綿製品であった。輸出総額の65~85%が生糸、10%前後が茶であった。幕府が倒れるまでの8年間に単価が共に2・5倍前後に急騰した。輸入商品の大半は綿製品であり、次いで毛織物が25~40%を占めていた。他にも砂糖や武器・艦船が増えつつあった。これらの商品が急激に国内市場を荒らしていった。

 こうした状況の中で、西陣などの職人は失業するものも出てきており、さらに米価騰貴の追い打ちがかけられた。コロリ騒ぎに続き、開港に伴う物価急騰、沿岸防備に伴う重課の連続で、民衆の生活は追い詰められ、一揆や打ちこわしは急速に激しくなりつつあった。

 こうした中で経済的従属が進んでいった。外商が日本人使用人を通じての生糸や茶の直接買い付け、資金前貸によって日本人商人を従属化、買弁化、場合によっては直接工場経営するケースも見受けられた。

 条約批准使節が、日米修好通商条約批准書交換のためアメリカに派遣された。批准書交換の後、博物館・天文台・海軍施設・病院などを見学する日々を送っていた。また、咸臨丸は使節一行の警固を名目に往路サンフランシスコまで随伴し、日本人自らが操って太平洋を横断したことになっているが、アメリカ人が同乗していた。

 ロシアは対馬侵略するために、文久元年ロシア船ポサドニック号が船体の修理を口実に対馬に来航した。これは、海相コンスタンチン大公の了承のもと、海軍基地を作るためであった。現地での勝手な島内測量や、実弾入りの大砲を放つなどの威嚇行為、また農作物の略奪などのロシア兵の無法に百姓らが抵抗した。その結果、百姓の安吾郎、郷士吉野数之助の死亡することになる。半年かかっても合法的な権益は獲得出来ず、島民の抵抗は強いことや、オールコックが呼び寄せたイギリス軍艦2隻の抗議、ロシア外相ゴルチャコフの命令により、ポサドニック号の退去することになった。

 イギリスなどに江戸・大坂の開市、兵庫・新潟の開港の延期を要請し、使節を派遣することになった。原因としては、物価高騰や夷人斬りの流行による内政困難が理由であるとされたが、その実、天皇や志士たちの攘夷熱を緩和し、和宮降嫁を円滑に進めるためであった。オールコックは、何か「保証か等価物」があれば譲歩の用意があると匂わせた。英外相ラッセルは、対馬の開港や英兵の公使館常駐、東禅寺事件の賠償などを条件に譲歩を許可する訓令を出した。条約締結国の英・露・仏・蘭に延期要請のための使節を派遣。1862年6月6日に延期交渉が妥結しロンドン覚書が調印された。その内容は、①開港・開市を1863年1月1日から5年間の延期、②交易への一切の制限撤廃などの条約の厳重な履行を誓約、③使節が帰国後に対馬の開港や一部輸入税の軽減を幕府に勧告することであった。

 使節一行が日本に帰国した時にはすでに、久世・安藤政権は崩壊しており、幕権は一橋慶喜松平春嶽の手に移っていた。

 (記:漆野優輝)