後藤敦史「洋上はるか彼方のニッポンへ ~欧米列強は何を目ざし、どう動いたのか~」のまとめ

『幕末維新のリアル 変革の時代を読み解く7章』(上田純子・公益財団法人 僧月性顕彰会[編]、吉川弘文館、2018年)より、「第4章 洋上はるか彼方のニッポンへ ~欧米列強は何を目ざし、どう動いたのか~」(後藤敦史著)のまとめを掲載します。

 1. 日本だけの物語としてではなく
 19世紀中ごろの日本というものを外から見たときに、欧米列強が何を目指して日本へやって来たのか、月性が生きた、その当時の世界とはどのような世界だったのか。これが今日のメインテーマである。
 黒船来航による外圧を受けた結果、否応なく不平等条約が結ばれ、それを行った幕府政治自体への批判の高まりから討幕運動が繰り広げられ、明治維新が起き、日本の近代化が始まったというのが「黒船来航」に端を発する「物語」の大筋であることは、皆さんご存知のとおりだ。
 しかしながら、このように外圧―倒幕―近代化という軸で語られる「物語」は、当時の国際環境の捉え方があまりにも一面的ではないか、という点で大きな欠陥があり、日本特殊論に陥る恐れがあると著者は警鐘を鳴らしている。

2. アメリカ西漸とアヘン戦争
 「黒船来航」というテーマの従来の研究をごく大ざっぱにまとめると、ペリー艦隊を派遣したアメリカには、三つの目的があった。その中で、北太平洋を通じる蒸気船航路を開いて、その蒸気船の補給場所として日本を利用するということが最大の目的であったというのが著者の考えだ。
 アメリカにとっての最終目的は、あくまでも迅速に東アジア市場に到達して、そのうえで当時の覇権国家であるイギリスに対抗すること。日本開国は手段であって目的ではないということが、日本開国を世界史のなかで考えるうえでも、重要な前提となる。
 これを踏まえて、この章では、メキシコ戦争などを経て太平洋に到達したアメリカの西漸運動が説明されている。
また、アヘン戦争の影響で日本が異国船打ち払い令を撤廃したことや、南京条約清朝は西洋諸国に対し、新たに四港も開港し、イギリスの商人たちを守るため海軍の活動領域が広がり、その領域の先に日本列島があるということにもふれている。
そして、清朝の外交方針で、条約の恩恵をイギリスだけでなくアメリカやフランスも得ることができたため、そういった国の東アジア海域における活動が活発化した。
 
3. アメリカ合衆国の太平洋進出
 1840年代以前のアメリカは、アジア最大の市場である中国に行こうとすると、欧米諸国と同様に、喜望峰を経てインド洋、東南アジアを通るルートを使用した。大西洋経由である限り、喜望峰ケープタウンのような重要拠点は基本的にイギリスが抑えているため、アメリカに勝ち目はなかった。しかし、1840年代後半に太平洋側に到達したことでアメリカにとってアジアに至るルートの条件が大きく変わった。
 そして、太平洋航路上の蒸気船航路計画がもちあがるなかで、石炭補給地、未調査の海域の海図など、だんだんと日本との国交樹立がアメリカにとって避けて通れない課題となってきたのである。
さらに、当時アメリカにとって捕鯨は重要な産業であり、日本近海でたくさん鯨が捕れることが発見されたため、日本近海で活動する捕鯨船が増えた。しかし、太平洋は広大で海図も不十分だったため、海難事故も増えた。日本に漂流した船員を守るためにも、日本との条約を結びたかった。

4. ペリーは何を成し遂げたのか
 ペリーは東インド隊司令長官就時点で、57歳だった。彼自身、海軍で卓越したキャリアを積んできたうえ、ペリー家はアメリカ海軍の名門一族であったため、自分の経歴の最後を飾る対日外交を歴史的偉業として成し遂げたいと、野心を膨らませたと考えられる。
 そこでペリーは、東インド艦隊の通常業務よりも、対日外交を優先させるということを、アメリカ海軍に認めさせた。これにより、1850年代から中国で起こった太平天国の乱という状況の中で、ペリーは中国在留の商人からの保護要請をなかば無視する形で、二度目の日本来航を果たしたのだった。
 ペリーの対日遠征は、実際のところ彼の個人的な判断がかなり反映されている。アメリカは日本を開くだけで「蒸気船航路が開ける」とは思っておらず、航路全体を調査する北太平洋測量艦隊というものを派遣している。結果として、ペリーに代わってこの測量艦隊が中国在住のアメリカ人の保護にあたったため、本来の測量事業を中断した。ペリーの対日外交をアメリカ外交全体のなかに位置づけるためには、このような測量艦隊との関係性も踏まえた評価が必要である。

5. 揺れる国際情勢のなかでの開国
 18世紀以来、ロシアは南下政策を展開していき、1853年にオスマン帝国と開戦した。クリミア戦争の勃発である。この戦争には、ロシアの南下を警戒するイギリスとフランスが参戦したのだが、アジア・太平洋にも大きな影響を与えており、日本の開国につながった。
 対ロシアとしては、ロシアの対日使節プチャーチンはイギリス、フランスの艦隊につかまらないよう慎重に行動したため、日露和親条約の締結には、日米和親条約の締結にかかった時間の約二倍の1年半かかっている。
 対イギリスとしては、イギリス海軍の中国艦隊司令官のスターリングと交渉が行われ、日英和親条約を締結したのだが、実のところスターリングは外交権を持っておらず、日本に中立を約束させ、また国際法にもとづいて軍艦の寄港許可を得ることだけが目的であった。ところが幕府が、欧米諸国がやってきたので条約締結の要求だろう、という先入観のもと交渉がはじまった結果、条約が締結された。
 対フランスとしては、和親条約は結ばれていない。フランス艦隊司令官モーラベルも、イギリス同様、クリミア戦争にかかわる交渉をするため長崎に来航しているが、スターリングと違い、モーラベルは外交権限がないということで、条約に関する交渉はされなかった。しかし、ここで重要なのは、幕府側は条約締結に否定的ではないということである。
 当時の国際環境のなかで、幕府はとにかくアメリカと結んだのとほぼ同条件の条約を、他の西洋諸国と結ぶ、ということを基本的な外交スタンスとしていた。どこの国とも一定の距離を保つ。この「等距離外交」が東アジア海域で、ロシア・イギリス・フランスが争うという状況のなかで、日本が国際的な紛争に巻き込まれないという結果をもたらしたのである。
 日本国内条件に関しては、老中阿部(あべ)正弘(まさひろ)はアメリカ大統領の親書を全大名に諮問(しもん)するなど、慎重な政治運営をしたため、大きな国内紛争は生じにくかった。

6. ニッポンから洋上はるか彼方へ
 アメリカの太平洋進出構想の結末としては、少なくとも1850年代における世界戦略は、失敗に帰した。
 その最大の原因は、南北戦争である。1861年から65年にかけて戦われたこの内戦により、世界への進出自体が、しばらく停滞していくこととなった。
 一方、太平洋蒸気船航路そのものについては、1867年に定期航路が開設された。しかし、これの開発を担ったのは、太平洋郵船会社という民間企業であって、国家主導ではない。
 さらに、1869年には、スエズ運河が開通した。これにより、アメリカ史から言えば、太平洋の蒸気船航路の速さ、という優位性そのものは失われてしまった。
 結局、1860年代には、イギリスに対日外交の主導権が移っていった。アメリカが太平洋を舞台に、ふたたび世界的な戦略を本格的に打ち出すことになったのは1890年代以降のことである。
 一方、南北戦争は突然勃発したわけではない。ペリーが来航した1853年も、日米和親条約が締結された1854年も含めて、1850年代において、アメリカの南北間では、奴隷制度の問題をめぐった対立がだんだんと激化していた。太平洋への膨張論によりアメリカが世界ナンバーワンになるのだということを盛んに唱えることにより、アメリカの分裂を避けようとしていたのではないか、というのが著者の考えである。
 現在の国際社会において、アジア・太平洋という地域は「統合」の可能性も含めて、大きく注目されている。今後の歴史研究において、アジア・太平洋という空間がよりいっそう重要になっていくと考えている。

記:竹田洸誠(国際商学科3年)