明治維新と自力工業化(4)

石井寛治『明治維新史』より、第三章「攘夷の行きつくところ」のまとめを掲載します。

 1 尊攘志士の活動と民衆
開港により国内経済の変動が起き、幕藩経済の崩壊をもたらした。このことが基盤となり、安静七年三月の桜田門外の変をきっかけに全国各地で尊攘志士の活動が活性化しだした。 幕府が黒船の軍事的圧力に屈して結んだ通商条約では裁判権関税自主権を否定される不平等性を含んでおりそれにまもられた外国商人の威圧的な商取引や生活ぶりへの反発として、攘夷思想が広まることは自然な流れであった。攘夷論者の役割は、対外従属に甘んじる幕府を頂点とする支配体制を大きく揺さぶり、従属からの脱却をもとめうる新統一権力への道を準備した国内政治変革との関わりにおいて評価されるべきことであるが、その道は苦難に満ちていた。

2 沸騰する朝庭の攘夷熱
井伊直弼大老暗殺のあとをうけて、同政権は、一橋慶喜松平慶永らの謹慎を解くなど一橋派との対立を緩和しつつ、朝廷との宥和策として孝明天皇の異母妹の和宮親子内親王を将軍家茂の夫人に迎えさせた。しかし、この政略結婚の目的である攘夷と公武合体がいずれも失敗におわった。政略結婚という戦国時代並みの宥和政策をとったことは、爆閣の時代錯誤ぶりを露呈し、尊攘志士たちの反発をより強め、幕府の地位低下に対応して、外様雄藩の進出が再開された。このようにして幕府の威信は低下し、朝廷の地位が急激に高まっていき、尊攘志士の活動も寺田屋の変以降勢いを増し、若手の激派公家たちとむすんで朝廷を動かしていた。そうした新状況に対応すべく、松平慶永のブレイン役である横井小楠が提起した幕政改革構想が「国是七条」である。この基本は幕府独裁を雄藩連合へ改めることにあり、この方針をもっともよくしめすのが参勤交代制改革であった。隔歳を三年ごとにあらため大名妻子の帰国を許したことで諸藩の経済的負担を減らしただけでなく、妻子を人質とする幕府独裁からの転機の表明でもあった。

3 高まる対外軍事危機
文久二年10月、政事総裁職松平慶永は辞表を提出したが、それは一橋慶喜が朝廷に開国論を説くと大見得を切った直後に自説を撤回し、攘夷奉承をしようといいだしたためであった。また、文久三年4月小栗忠順は、幕兵を率いて上京し、京都を軍事的に制圧したうえで、朝廷に和親開国の勅旨をださせ、上洛したまま尊攘派の人質になった感のある将軍家茂を連れ戻すクーデターを計画したが、反対され歩兵奉行を罷免されている。同様な計画は同年に英仏両国公使の協力を得て老中の小笠原長行によって行われたがこの軍勢は将軍の命で入京を阻まれクーデターは失敗に終わった。尊攘派を一掃して幕府中心の体制を再建することが、これら失敗したクーデターの狙いであったが、そのために必要であれば国家主権を一部失ってでも外国の助けを借りるというのが幕府の姿勢であった。
薩摩藩は隠れ開国論派であったが、文久三年イギリスとの薩英戦争が起こった。物的被害は薩摩側、人的被害ではイギリス側が大きかった薩英戦争の結果、薩摩藩は幕府からの借入金により償金を支払い、イギリス側もこの交渉をつうじて薩摩藩が開国派であることを知り、以後、両者は急速に接近することになる。
そんななか、文久三年の攘夷期限に率先して武力攘夷を行なったのは長州藩であった。長州藩は外国船は問答無用で打ち払う方針であり、次々に外国船を砲撃していった。こうして、尊攘激派の牛耳る長州藩は、諸外国ならびに幕府との緊張をますます高めつつ孤立していった。

記:中野克哉(経済学科3年)