明治維新の思想(15)

芝原拓自『開国』から、「公武合体尊皇攘夷か」のまとめを掲載します。

  雄藩は、支援を求める朝廷と権威を失墜した幕府とのあいだをとりもつというかたちで自藩の影響力の増大のためにも「国事」に奔走しはじめた。その先頭をきったのが、直目付長井雅楽をおしたてた長州藩である。
長井は藩主毛利敬親に通商で国力を高め、五洲の方から進んで貢物を捧げてくるような国づくりをすべきであるという主張を綴った「航海遠略策」をだした。藩庁の要路はこの建白書にとびつき、ただちに長井に上洛・上府を命じたのである。
 当時の藩庁の指導者周布政之助は全国に広がっている鬱結の正気を海外に押し出さなければ内乱の危機さえあると考え、長井の主張に同調した。
さらには大風呂敷のかぎりであった建白書だが、その壮大さを孝明天皇は深く気に入り、さっそくその線での公武周旋を内命したのであった。
 けれども長井の名声もそれまでであった。長州藩への対抗意識を秘めた薩摩島津久光の上洛のニュースが伝わるにおよんで、公卿や志士たちもまた、にわかに久光に期待を寄せはじめたのである。久光は前藩主斉彬の異母弟で、精忠組の志士に同情のある小松帯刀を側役に、精忠組の大久保利通を小納戸に抜擢し、西郷隆盛をも召喚して徒目付に払拭させ斉彬の路線を継承すると表明していた。それゆえ、藩内の尊攘派志士たちにも声望が高く、それが在京の志士や公卿衆にも宣伝されていたのである。久光は斉彬と違って夷人ぎらいの封建主義者であり、封建秩序を乱す志士たちの勝手な論議などには禁圧的であった。そのとき、あくまで幕政改革と公武合体による上からの秩序ある国の確立を目指していたが、西国一帯の志士たちは久光を擁立しての尊攘の「義挙」を勝手に画策するという久光の真意との摩擦が生じていた。
 ぞくぞくと大阪の薩摩藩邸に集まった志士たちだが、久光の公武合体路線の側近であった大久保利通らはこの志士たち数十名を事実上藩邸に軟禁した。幕吏の探索が厳しいという口上で、挙兵計画をつぶそうとしたのである。その大阪藩邸のなかで、志士たちはあせった。ついに有馬・柴田・田中謙助らは、久光にたよってもらちがあかないとして、真木和泉らとはかり攘夷の先鋒になろうと決断した。志士たちの暴発を知った久光は、ただちに有馬と親交のある奈良原喜八郎・道島五郎兵衛ら九人の剣の使い手を寺田屋に派遣した。もしどうしても帰順しない場合には、上意討ちも暗に認めていた。久光はすでに天皇から不穏の浪士たちを鎮静してほしいという勅諚を受け、自信を持っていたのである。結果、斬り合いに発展し鎮撫側の九人は討死した道島の他全員が負傷したが、激派もまた柴田・有馬ら六人が殺され、ここに薩摩尊攘派の首脳部は壊滅してしまったのである。
 この寺田屋の変を孝明天皇は賞賛したことにより、久光の威望はたかまり、朝廷はその改革趣意書を協議した。朝廷改革に関する久光の意見はまずスムーズに通り、残るは幕政改革の問題、つまり一橋慶喜松平慶永の幕権掌握をどのようにするかということであった。そこで久光は勅使を派遣し、将軍後見職慶喜を、大老または政事総裁職に慶永を就任させて徳川家を中興せよ、と要請した。いまや威光をなくした幕閣は、勅使に屈服せざるをえなかった。
 ところが大原重徳や島津久光が東下したあとのきょうとでは、またも尊攘派の志士や公卿が勢力を盛り返していた。長州藩尊攘派が挙兵計画を弾圧した久光が志士たちの声望を落としたとき、いまやチャンスとして、長井の弾劾と攘夷藩論の確立のためにもう運動を展開したのである。そしてこんどは、土佐尊攘派も、負けじと頑張りだした。京都は当時、まさに長・土の尊攘派が全盛を極めていたのであった。
 尊皇攘夷の叡慮を遵守するという名目で長・土の軍事力にまもられて、少壮の廷臣や志士たちも、にわかに意気があがっていた。清河八郎の子分本間精一郎らの志士が一部の廷臣と組み、排斥運動を廷内におこし、また直後に「四奸二嬪」を脅迫したりした。その運動の中で、かつて長野主膳と共謀していた島田左近が斬殺されたことを皮切りに物騒な「天誅」の幕開けとなった。天誅テロは猛威を振るい薩・長・土の悪口を言って志士の離間をはかったという理由で志士の本間精一郎が晒し首にされる事件も起きた。大獄の暴圧がいささか狂っていたように、復讐の熱狂も荒れくるい始めたのだ。
 一方政治的な意思を自らの行動で示す道を一切遮断されている一般民衆はやむににやまれぬ非合法の一揆や打毀しによる以外は、これら上層部の政争の中になにがしの世直しの曙光を求めて、それに淡い期待をつなぐほかなかった。そのため破約攘夷の熱狂やテロにさえ、ある共感を示したとしても不思議ではない。つまり、民衆は世直しや生活安定のきざしに敏感であり、その同じ立場から、志士の天誅にさえかすかな希望をつないでいたのである。そして、このような民意の一定の支持があったからこそ、激派はますます高揚するとともに、また積極的な人気取もおこなった。
 当時の尊攘派の理論的、政治的なリーダーたちは、このような風潮のなかで徐々に攘夷と王政復古のイメージをふくらませつつあった。志士の領袖としての信望を集めていた真木和泉は、天智天皇神武天皇・神代の例をこの世に再現することを究極の目標として掲げていた。つまり、かれらがさけぶ尊皇攘夷の目標とは、天皇を頂点として、もっとも徹底した封建制への復古にほかならなかったのである。それゆえ真木らは力士や盗賊と同類のようにみなす農民の一時的な利用の他には、民衆の真の要求など一度も考えたことがないといってよい。かれらがいかに民衆の困窮に同情的なポーズをとろうとも、思いは全く別のところにあったのである。
 一橋慶喜将軍後見職に、松平慶永政事総裁職に正式に就任するとかれらは「公共の政」をとろうとする姿勢をみせた。公共の政とは軍事・内政・外交・交易のすべてにおいて覇権に執着する徳川家の私益を捨て、朝・幕・藩の合体でこれを推進する理念をもとにした政治のことを指し、それなしには国家の挽回はおろか、対立と抗争で現体制は瓦解すると主張したのである。これらの構想は幕府内では異端であり、それゆえ松平慶永は老中や幕臣の圧力に対しては辞意表明で対抗し、慶喜・横井路線に心服する大久保忠寛一橋慶喜の尻を叩く形で幕府の文久改革をすすめたのである。第一に参勤交代の緩和をおこない、陸・海軍制の改革と拡充もすすんだ。そんなしだいだから、幕府有司の慶永・横井・大久保路線への敵意は高まっていた。その攻撃の鉾先が大久保に向けられた際、徳川家の血を引く慶喜もその動きに同調し、すなわち慶喜・慶永政権自体が、幕政改革そのもののなかで、「公共の政」のハト派慶永と「幕威幕権」のタカ派慶喜とに二分されつつあったのである。
 「公共の政」の理念は、このように幕府の内部でも多事多難であった。そのうえ、さらに二つの点で大きな困難に直面しつつあった。一つは、慶喜・慶永政権を樹立させた島津久光が、帰途にいわゆる生麦事件を引き起こし、対外関係を極度に緊張させたことである。いまひとつは、ひたすら推戴すべき叡慮そのものが、長・土両藩の尊攘派の支配と天誅の横行の中で、いっそう夷狄掃攘にかたまり、これを督促する勅使をすら派遣してきたことである。この二点では、ともに開国通商路線にあるハト派タカ派も上げて困惑し、叡慮遵奉のスローガンと対外関係とのディレンマに追い詰められたのである。
 このような苦悩のなか、さらに二つの事件が追い打ちをかけた。勅使が離府した直後に高杉晋作久坂玄瑞井上馨伊藤博文らが、イギリス公使館に火薬をしかけ、焼打ちをおこない、さらに友人宅で杯をかたむけていた横井小楠が、開国路線をにくむ肥後勤王党の刺客に襲われたのだ。
将軍の上洛は、このような背景のなかで実現される。家茂を待つ京都が、慶喜や慶永にとってもけっして居心地のよい土地であろうはずのないことは、もはやいうまでもない。


 この時期は海外の列強の存在により日本の権力者が危機感を持って動き始めている。幕府の権力の低下や、主要人物らの衝突や分裂が印象的である。また天誅の発生等から身分にかかわらず多くの人の関心が政治に集まっていることがわかり、民権運動の兆しを感じた。

(記:野尻航平)