明治維新の思想(9)

前々回までのところで、市井三郎氏の『「明治維新」の哲学』の輪読をひととおり終えました。今回は、阿部正弘川路聖謨らによる幕政改革に対し、一定の高い評価を与えているという共通点から、原田伊織氏の話題の近著に注目したいと思います。市井氏の「明治100年」の段階の見解と、原田氏の「明治150年」の段階の見解とでは、とくに「御一新」そのものへの評価において大きな違いがありますが、それだけに、両氏の見解を比較することで見えてくるものもあるでしょう。

報告者は公共マネジメント学科の石飛君です。論文にも匹敵する分量のレポートをまとめてくれました。

もうひとつの幕末史?:原田伊織氏と市井三郎氏の見解の比較を通して 

石飛智浩(公共マネジメント学科3年)

 

平成30年は明治維新から150年、節目の年である。この年に明治維新について考え直す機会を得た事は何とも意義深い。私が輪読で担当したのは原田伊織氏の著作「続・明治維新という過ち~列強の侵略を防いだ幕臣たち」の第3章2~4の部分である。この書籍は学校教育や小説、ドラマ等において「薩長=正義(官軍)、幕府=悪(朝敵)」といったイメージが付きやすかった歴史観に一石を投じるような内容、主張がなされている。今回は、1に私の担当部分の要約。2に専門演習で取り扱った市井三郎氏の著書「思想からみた明治維新―『明治維新』の哲学」と比較し原田氏と市井氏の幕末・維新への見解の違いについて。3に幕末における明治維新以外の選択肢について私なりの考察と全体のまとめ。以上3つをまとめていく。


1.要約
第2節 老中阿部正弘の決断と功罪
 ここではペリー来航当時、幕府の実質的リーダーだった阿部正弘についておもに述べられている。幕末期、世界に目を向けると1757年プラッシーの戦い1840年アヘン戦争等イギリスを中心に列強は植民地獲得の帝国主義政策を競って進めていた。アメリカも次の「西部」として太平洋に進出し、イギリスから遅れを取り戻そうとしていた。1846年アメリ東インド隊司令長官ビッドルが浦賀に来航。日本側の開国に応じない旨の回答を知るとアメリカは強硬路線に方針を転換する。1853年ペリー浦賀に来航。長崎には回航しない、武力に訴えてでも江戸へ進出して国書受け取りを迫る、「恫喝外交」の展開であった。しかし、幕府はペリー来航の情報をオランダ風説書等で事前に把握していた。軍艦の名前、目的、司令官の交代等きわめて細かい情報まで掴んでいたのだ。だが、アメリカとの軍事力の差を推測できる米墨戦争(1846年)についての記載は無かった。さらにさかのぼればプラッシーの戦いについての記載もなかった。これは、幕府役人の通詞、長崎奉行に「保身の感覚」が働いたからと著者は分析。意図しての隠蔽などではなく、日本にとって差し迫った問題でなければ幕府に無駄な心配を与える事は避けるべき、といった心理が米墨戦争を報告するか否かの状況にも作用したと著者は考える。それでも幕府は米墨戦争の結果ぐらいは把握していたと著者は推察。ペリー来航時、遺憾ではあるが大統領の国書を受け取ったのは知られているとおりである。
 ここから阿部正弘の罪について述べられている。彼の最大の罪は著者によれば「御三家(徳川斉昭)と外様(島津斉彬)の登用」である。徳川斉昭を海防参与にすることで幕閣の一員に加え、「過激な暴力的尊攘原理主義者たちを抑えられると考えていたとすれば、それはその風貌通り甘いと言わざるを得ない」(110頁8行)と厳しく指摘。そもそも江戸幕府始まって以来、御三家と外様大名が幕政に直接口出し、介入した試しは無い。阿部正弘の上記の人材登用は異例中の異例であった。このことが「外様大名の幕政参加に道を開き、更には朝廷の政治介入工作を外様大名に許し、最終的に幕府の威信を大きく低下させる幕末大動乱の素地を作ることになった」(111頁9行)と述べている。また、「米国大統領国書を広く一般開示」した点も「誤り」と指摘。幕府旗本、諸大名、朝廷、町人に至るまで開示、意見を求めたことについて「重大事であればこそ政治家としては無責任極まりない」(112頁14行)と非難。
 一方、阿部正弘の功績についても述べている。まず、「日米和親条約の締結」である。武力衝突を避け、富国強兵を経て日本を列強の仲間入りをさせる計画を描いていた。その他にも、「講武所長崎海軍伝習所の設立、西洋砲術の導入・推進、大船建造の禁の緩和、蕃書調所の開設、若手幕臣の積極的な抜擢登用など」(114頁9行)安政の改革と呼ばれる政治改革の実行は「この後の幕府、日本を支える基を創った」(114頁11行)と称賛。さらに阿部正弘の人材登用によって「幕末の優秀な官僚群が一団として形成され」(114頁13行)幕府の外交を支えたと絶賛している。

 

第3節 日米交渉と林大学頭
 ここでは日米交渉に臨んだ幕府側「応接掛」の林大学頭の活躍をはじめ「黒船来航」の知られざる史実について記載されている。7つの史実を順に紹介していく。
 1つ目にペリーの強硬・高圧的な外交姿勢は、彼の個人的理由が大きかった点。アメリカ本土では民主党の新大統領ピアスが「ペリーの対日強硬策に対して強い警戒感」(116頁4行)を持っていた。また艦隊派遣に関しても駐清国弁務官のマーシャルと対立していた。国内外の状況も重なりペリーは早急に結果を出す必要があった。
 2つ目にペリー艦隊が正当防衛以外は認めない「発砲厳禁」の大統領命令を受けて日本に来航していたという事実。これには2つの背景があった。1つは、「開戦」の判断はアメリカ議会の専権事項であり民主党が多数派を占める議会に対しペリー艦隊は弱い立場であったこと。2つ目は日本と戦争が出来る状態に無かったこと。アジアの良港は大英帝国がいち早く押さえており燃料、食料等の補給線をアメリカはまだ確保していなかった。2つの背景が存在し、実際に軍事衝突は出来なかった。ペリー艦隊に出来たことは「脅しの礼砲」と「平和的交渉」だけであった。
 3つ目に仙台藩士大槻平次が見事な意見具申をしていた事実。
「・黒船4隻の戦力は巨大であるが、彼らには交戦の意図は全くない。
彼らには補給線がないからである
・彼らの意図は蒸気船用の石炭補給地の確保である
・彼らが万里の怒濤を超えて、断固たる決意を以て来航したからには、
当方も多少は「御聞届」すべき(妥協すべき)であろう
・交易は許すべきではない                    」(121頁9行)
 上記したアメリカの事情も含め実に明快に国難における対応を分析している。これは幕臣にも閲覧され、「応接掛」の基本姿勢に大きな影響を与えた可能性があると著者も指摘。
 4つ目に幕府の事前対策である。ペリー来航の情報入手は先に述べた通りだが「来航地を長崎か浦賀と予測し、長崎のオランダ通詞の配置転換、浦賀奉行所の体制強化を図っている」(122頁8行)
 5つ目に幕府が掲げる「避戦」の方針。「元和偃武」にのっとり、勝てない戦は避ける基本方針がこの幕末期にも貫かれていた。
 6つ目に林大学頭率いる幕府外交団「応接掛」とペリーの間で繰り広げられた初の日米交渉。応接掛は「薪水給与に応じるが、交易は行わない」等ペリーに対して理路整然と論戦に臨んだ。結果的にペリーは「通商」の要求を押し通すことが出来なかった。
 7つ目になるが、6つ目で紹介した結果として日米和親条約が締結される。ここで重要なのは、史上初の日米交渉はアメリカの要求がスムーズに通った「アメリカ勝利」とは言えず、日本に分があったと言える点だ。この条約段階では治外法権は一切認めていない。
 以上がこの章で取り上げられていた項目の概要だが、1番の特筆すべき点は「軍事力という裏付けが無い状態にもかかわらず、日米交渉で応接掛が善戦した理由」である。交渉中にペリーは「国政を改めないならば、国力を尽くして戦争に及び、雌雄を決する用意がある」(126頁9行)と脅しのように迫る時があるが、林大学頭は「戦争もあり得るだろう。しかし、」(126頁14行)と反論を開始する。ペリーの恫喝に怯えることなく、毅然とした態度を林大学頭以下応接掛の面々はとったのだ。これは武家の堅持していたアイデンティティを持ち「戦争もあり得るだろう」(126頁9行)と言えた覚悟があったからこそ、全く引けを取らない交渉が出来たと著者は推察した。

 

第4節 日露交渉と川路聖謨
 ここではロシアとの外交が触れられている。ロシアはアメリカよりもさらに前から日本に接触を図っていた。1792年ラックスマンが北海道根室に来航して以来、ロシア船は日本に頻繁に来航している。そして、1853年ペリー来航の僅か1か月後プチャーチンが長崎に来航し日露交渉が始まる(同年クリミア戦争勃発)。日本の全権は川路聖謨という人物である。プチャーチンと川路の6回の会談、安政地震等の紆余曲折を経て翌年1854年日露和親条約が締結された。
 著者は川路聖謨の功績として2点挙げている。1つ目は国境線の策定においてロシア側の譲歩を引き出した点(択捉島とウルップ島の間が国境、樺太は雑居地)。2つ目に幕府等に親露派が増えていた中、プチャーチンに対して決して油断せず交渉を行った点である。
 この日露交渉において川路聖謨プチャーチンの間に信頼関係が芽生えており、プチャーチン川路聖謨のことを「ヨーロッパ人にもなかなかいないウイットと知性に富んだ人物、我々に反駁する巧妙な弁論で知性を閃かせたが、彼を尊敬しないわけにはいかなかった」(137頁9行)と評している。一方の川路聖謨プチャーチンのことを「自分など足許にも及ばない豪傑である」(137頁12行)と評している。この二人の関係も含め「生身の人間同士の信頼関係が生まれて初めて、外交成果というものが生まれるものではないだろうか。」(137頁14行)と著者は現在も厳しい外交交渉への意見を述べている。

 

2.市井三郎氏と原田伊織氏の「幕末・維新」への見解の違い
市井氏
 幕末期は貨幣経済の発展と封建主義(年貢、石高制等)の矛盾が顕著化し幕藩体制の限界があったと指摘。そのうえで農民一揆の増加、討幕思想の芽生えにより山県大弐吉田松陰等の活躍を紹介している。
 幕府側に目を向ければ阿部正弘の功績として、「日米和親条約締結」と「挙国一致体制樹立に向けた幕府改革」(情報公開や御三家・外様の積極登用等)を挙げている。
 明治維新については下級武士を中心とした「自力の変革」と考えており、久坂プランや真木の真心思想等幕末の志士たちの活躍、そして一君万民・四民平等・職業選択の自由等の獲得「御一新の成就」に繋がったと指摘。明治維新、御一新の変革は帝国主義が横行する世界情勢で日本にとって大きな意義を持ったと主張している。さらには明治からの対外進出等負の面にも言及している。全体として明治維新(討幕運動)を肯定していると考えられる。

 

原田氏
 原田氏は幕藩体制がそもそも理想的であり明治維新は誤りと考えている。阿部正弘の「功績」だけでなく「罪」の部分へも言及している。市井氏が評価していた「挙国一致体制樹立に向けた幕府改革」の一部を批判し、御三家や外様の幕政参加は幕府崩壊の入り口を作ったと指摘。さらに、上記したような学校教育ではあまり触れられてこなかった日米和親条約締結に向けての裏側を説明していた点も見逃せない。市井氏が薩長(討幕派)の詳しい史実を述べていたのとは対照的だ。事実、「発泡厳禁の大統領命令の存在」や林大学頭・川路聖謨の外交交渉手腕の高さ等を知る中学、高校生は少ないだろう。私自身今回初めて、この史実を知った。
 いずれにせよ原田氏の主張は「弱腰、無策といった従来の幕府イメージ」から、「江戸幕府の健闘ぶり」を感じさせる新しい側面を読者に与える。歴史の概念を従来と異なる立場(幕府側)から説明することにより、江戸幕府を擁護していると考えられる。

 

3.江戸幕府の可能性・総括
 市井氏は明治維新を「自力の変革」と捉えている。世界各国が植民地になりつつあった幕末期。日本は討幕運動、富国強兵政策、日清日露の戦争を経て主権を守りつつ、列強の仲間入りを果たそうと邁進していった。植民地にならず、日本が独立国を維持出来たのは明治新政府はじめ明治期の先人たちの活躍があればこそだと考える。しかし市井氏が指摘する通り150年の時代を経て現代人の私たちは明治維新後「近代」の歴史を知っている。列強の仲間入りを果たし、アジアへ二番煎じのような進出政策、大東亜戦争そして敗北。ここで考える1つの選択肢として「江戸幕府の存続」が考えられる。
 歴史で「もしも」は禁句であるが、今回の著書を読めば幕府存続が頭をよぎる。江戸幕府がもし存続していたならば、どのような時代を日本は歩むことになったのだろうか。政体は「幕府を中心とした雄藩連合」が時間をかけて工業の近代化を進めていったのではないかと考えられる。韮山・萩等の反射炉が出来ていた当時である。時代が進めば「官営八幡製鉄所」ならぬ「幕府直轄八幡製鉄所」が建造されたかもしれない。実際に15代将軍徳川慶喜公はじめ幕府側は大政奉還後の日本の未来像を独自に描き、急速な幕府改革を行っていた。
 しかし、今回の発想で重要なのは政体等の「もしも話」ではなく、対外進出をどのように考えるかである。江戸幕府はペリーが交易を迫った際「我が日本国においては自国の産物で十分足りており、外国の品がなくても全く事欠かない。従って、交易は行わない。」(128頁6行)と回答している。つまり日本国内で産業や消費が完結しており「自給自足」が行えていた。近年「江戸時代の循環型社会を見直そう」といったような論調が飛び交ったがこの考えと合致する。これは戦前、日本が他国の植民地を必要としない石橋湛山らが提唱した「小日本主義」の考えにも当てはまる。植民地の不必要性は戦後高度成長期(国内市場の拡大・成熟)に証明されてしまった。織豊政権や明治政府のような海外進出を考えていなかった、非戦の「元和偃武」を掲げていた「江戸幕府体制が存続」していたならば、欧州列強の植民地獲得競争への参加や、大東亜戦争の道に突き進んだという歴史の過ちを日本が踏むこともなかったのではないかと、私は考えずにはいられないのである。
 とは言え幕藩体制の下、「士農工商」の身分制度、幕府はじめ武士階級の特権など現在の民主主義と相反する体制への打破に向けた民衆の動き(フランスの市民革命等)がどのように日本で起こるかは予想出来ない。また江戸幕府のもとで列強の植民地化を食い止められたかも疑問が残る。各藩王国を個別撃破され、ムガル帝国イギリス領インド帝国に変容した先例も存在する。オスマン=トルコ帝国や清王朝など一時代を築いた大国が列強の侵略を受けた当時、幕府の下日本が主権を保持し続けられたか疑問である。長文に渡り空想の話にお付き合いさせてしまったが、明治維新が誤りというのなら、どのような近代日本に向けての構想が存在したか、著者の考えをさらに深く聞きたいところである。
 明治維新150年を考える際、幕末といえば「薩長が正義(官軍)」というイメージに特に疑いを抱かない方が多いと考える。著者のいう「官軍教育」の成果であろうか。しかし、今回の著書で高校までの歴史教育で学んだ幕末史が如何に一面的であったかが改めて理解できた。だが幕末に限らず、近年は一次資料等を参考に通説と異なる歴史の新説が多く主張されるようになってきた。歴史の当事者は勝者だけではない。だが資料として後世に広く伝わるのは勝者の歴史だ。幕末・明治維新も例外ではない。歴史は広い視野をもって多角的に考えていかなければならない。そして平清盛石田三成田沼意次など従来悪役と考えられてきた人々の再評価が現在進んできている。私自身は幼少期に祖父母と共に見た時代劇の影響もあり、江戸幕府・時代に好意を寄せている。今回の著書のように幕府側の視点に立ち、明治維新に触れることは節目の年にあたり個々の歴史認識を改めて考える良い機会だと感じる。評価や人気の高い薩長をはじめとする明治新政府側の志士達だけでなく、立場や想い描いた近代日本像に多少違いはあれ、「日本国を守り抜く」という同じ目標に向かって活躍した江戸幕府幕臣たちの再評価が進むことを切に願う。


参考文献

市井三郎『「明治維新」の哲学』、講談社現代新書、1967年
原田伊織『続・明治維新という過ち 列強の侵略を防いだ幕臣たち』、講談社文庫、2018年