明治維新の思想(8)

市井三郎著『「明治維新」の哲学』(1967年)では、阿部正弘川路聖謨らによる幕政改革(とくに国民国家構想と開国)が、井伊直弼の反動政治によって頓挫し、それへの反発から倒幕へと急進化していく情況が描かれていました。

その際、山県大弐の倒幕論を受け継いだ吉田松陰がペリー来航の際に米軍艦に乗り込んだ罪を減刑したのが、他ならぬ阿部であったことが強調されています(97頁)。

ただ同書では、「哲学」と銘打たれながらも、松陰を初めとする攘夷倒幕論の詳細、とりわけ同書で「信仰的攘夷」(水戸派)に対して「自覚的攘夷」(松陰、久坂、高杉ら)と称される思想の内実について、(少なくとも山県の『柳子新論』への言及に比べるなら)それほど踏み込んだ考察はなされていません(もっとも、のちの『近世革新思想の系譜』(1980年)ではもう少し詳述されています)。

数々の暗殺を伴う事実上のクーデタによる政権奪取について、実際に成立した明治政府は専制政治に向っていったという留保付きながらも、結果的に身分差別の撤廃を初めとする社会変革(「各人が、自分の責任を問われる必要のない事柄から、苦痛を負わされる度合いを減らす」)が達成されたという根拠から、市井はこの「御一新」を高く評価します。

こうした評価について吟味するためにも、「思想」や「哲学」の部分についてもう少し詳細に検討していく必要があるでしょう。そこで次に、和辻哲郎著『日本倫理思想史』から第五篇、第六篇を読むことにしました。以下、第五篇から第六章、一~四章のまとめを掲載します。

第六章 江戸時代中期の儒学、史学、国学等における倫理思想史〔一~四〕

 江戸時代中期、この時代を17世紀と18世紀とに区切ることができる。17世紀の江戸時代初期の倫理思想は、豪快で物事にこだわらない豪宕であったが、17世紀末になると繊細で熟成されたものとなる。この時代の特徴として、儒学の影響を受け国学が勃興したことである。他にも儒学の影響は古学の運動や古文辞学の運動にも及んでいた。この時代に盛んになった史学、古文辞学の観点から考察していく。
 まずは水戸光圀である。水戸の藩主であり、家康の孫である彼は『大日本史』を編纂し、客観的な史実を叙述した。これは歴史的反省がこの時代に行われたことを意味する。彼の思想は士道に基づくものだった。歴史的反省から戦国時代や怪力乱神の否定など従来の思想を否定し、新しい武士の立場を明確にした。また尊王賤覇に強く共鳴し、同じ徳川家の政治を批判している。
 次に新井白石である。彼は『読史余論』の著者であり、武家政権の沿革を記した。幼い頃から勉強熱心で学問の範囲は広く、その中でも史学による業績は目を見張るものがある。37歳の時に徳川綱豊に仕えることになり、政務の顧問として自らの思想を政治に反映することができた。彼の政治思想は儒教に立脚している。民を苦しめ仕君の楽しみを尽くすごときは、民生の名に値しないとし、当時の民政は権力的な搾取をしているとして批判した。歴史的反省として、藤原氏の専権を責め源氏の勃興を当然と認める、つまり武家政治を姦悪の歴史と認め、現前の武家政治を正しいものたらしめる道に説き及んで行った。
 また彼は江戸時代の洋学の先駆となる。当時キリスト教に対する風当たりが強かったが白石はシドチとの問答で西洋の学の探究心やキリシタンへの同情をあらわにした。また、自身の国のことも客観的に評価しており、我が国は他国の影響にやすやす従ってしまうと感じていた。このように白石は豊富な学と先進的な目をもって、江戸時代の政治を運営していたのである。
 荻生徂徠伊藤仁斎とともに復古学を発展させた儒学者である。彼はシナ思想から影響を受け、聖人の絶対性を重視、それを基準とした。徂徠はこの見解を基礎付けるのに古文辞学をもってした。これは宋学の古典解釈に対して、学問的客観的な方法を唱道した。彼は、聖人の絶対性を重視するあまり思索的哲学的攻究の排斥という伊藤仁斎の欠点を一層徹底せしめたが、それによって歴史的文学的な研究が一層推し進められた。
 最後に契沖と荷田春満の二人である。契沖は真言宗の学僧であり哲学、文学に優れていた。その才能は文学の研究に生かされ、万葉集の歌の解読や歴史的仮名遣いなどの言葉を扱う研究を進めた。また、言語や文芸に関する認識において仏教哲学の素養を活かしつつ浸透した論理を展開、彼の身の上を最大限活用した実績を生み出していった。荷田春満伏見稲荷の祠官の家に生まれ、万葉集古事記伊勢物語など文化面での解釈を行った。彼は教育を重視し、既存の「異端」を排撃するために「創学校啓」を提出、「皇国の学校」を開き「邪説暴行」を正そうとした。
 以上のように17世紀末には歴史的な振り返りが進み、その成果が政治や思想、文化的成果に繋がっていった。

(記:鄭 東鎬 経済学科3年)