長州の政治経済文化(16)

 長州藩内戦・藩論転換(1865年)をめぐるクレイグのコメントで印象深い箇所を二つ紹介します。

 一つは、高杉晋作の「時期尚早な(premature)」挙兵です。少数の諸隊(伊藤俊輔の力士隊、石川小五郎の遊撃隊)を率いて功山寺で決起しますが、これが結果的に成功したのは、クレイグによれば逆説的にもこれが「時期尚早な」挙兵であったからだということになります。

幕府の監督役は椋梨藤太政権に対し、尾張藩の支隊を貸与し、諸隊の撃滅援助を申し出たが、椋梨政権は助太刀には及ばないとこれを拒否した。もしも監督役が軍事援助を強く主張していたならば、あるいは政権がこれを要求していたならば、あるいはまた高杉指揮下の決起軍が多数であり、幕府軍が介入の必要性を感じていたならば、諸隊は解体を命じられていた可能性が高い。もしそのような事態になっていたら、長州の朝廷派勢力は結集点を失い、長州は無期限に椋梨保守政権の支配下に入り、他のいずれかの藩による「別の王政復古」を待たねばならなかったであろう。(p. 255)

 もう一つは、大村益次郎についての記述です。蘭学と西洋兵学の専門家にして、明治政府の初代兵部大輔であった大村をクレイグは次のように評しています。

長州において排外主義がピークに達していたタイミングで、周布政之助伊藤俊輔井上聞多らをイギリスに派遣させたのは、大村の影響によるところが大きいことは明白である。長州内戦後、長州軍再編の責任者に任ぜられたのは、おそらく高杉の意向によるものである。西洋科学を習得する能力が彼の出世を可能にしたのである。表面的かもしれないが私の印象では、大村は長州の他の過激派のサムライとは異なるし、また伊藤や井上といった西洋通の過激派とも異なる。軍事的な役割に限られてはいたが、大村は長州の福沢諭吉と捉えておけばだいたい間違いないであろう。(p. 266)