明治維新の思想(7)

『「明治維新」の哲学』4,7,8,9各章のまとめを掲載します。

【4章】

 「明治維新の哲学」の第4章、「国民国家の幕政改革」について述べる。第4章では、十九世紀前半からの幕府の内外の情勢の変化と老中阿部正弘による開国の端緒作りについて述べている。まず、当時の幕府体制について説明する。当時の人々には日本全体での国という考えはなく、自分が所属する藩に対して国という意識を持っていた。つまり日本という統一国民としての意識がなかったのである。これに対し、幕府政治のルールを改革し統一国家とする試みが始まる。

 次に統一国家となるように試み、改革した老中阿部正弘について述べる。正弘は前任の老中であった水野忠邦の後任として老中を任された。水野が行った改革は極めて限られた軍事的な改革であった。それを多方面に広げ、統一国家へと推し進めたのが正弘であり、開国の端緒を作り上げていくのである。正弘が行った改革について説明する。まず正弘が改革を行うには3つの大きな障害があった。一つ目が西洋を夷狄視する根強い伝統。二つ目が具体的な政策の構想がなかったこと。そして三つ目が圧倒的多数の上級武士からの妨害であった。これらの課題に対し正弘は、隠密外交等の策を利用し幕府の改革を進めたのである。隠密外交では、薩摩の島津斉彬と親交を結び幕府と緊密に連携する存在を作ったのである。また正弘は老中の権限を改め、重要な問題に対して意見を述べさせるようにした。幕府の百司や関係する諸藩にも意見を求めることで広汎な人々に政治に対し参与意欲をかきたて、政策決定への抵抗を減少させる効果があるからである。正弘は、他に島津斉彬を始めとした自分の考えと近い考えを持つ協力者を作った。京都朝廷にも協力と理解を求めた。こうした協力者や朝廷により、各国と和親条約を結んでも尊王攘夷運動として燃え広がなかったのである。更に正弘は次々と改革を実行した。軍事面以外にも洋学所を設置する等をして、武士たちの意識を次第に変えていくのである。しかし正弘は革命のさなか、わずか三十八歳で病死したのである。だが正弘は死去する前に後の日本にとって重要な人物となる吉田松陰佐久間象山を助けていたのである。川路聖謨の連絡により二人の優秀な人材を失うことを惜しみ、命を救ったのである。

 最後にまとめをする。正弘が統一国家として日本を封建割拠の状態から改革をし、ようやく成功し始めた直後に死去したことは、その後の幕末史に大きな影響を与えることになる。また、正弘が命を救った吉田松陰佐久間象山が、その後の幕末に大きく影響を与えていくことになる。

(記:清藤俊文 国際商学科3年)

 

【7章】

 『「明治維新」の哲学』第七章「維新改革への歩み(Ⅰ)」では、どのように政治主導権が移行していったのか、松蔭門下の久坂玄瑞が何を実行していったのかについて述べられている。

 水戸浪士たちによる井伊大老暗殺は、朝廷の権威を高め、政治の中心地を京都に移すほどのものであった。だが、この過激な行動は幕府否定で国民国家をつくろうとする吉田松陰門下の努力に突破口を開けることになり、水戸流の「尊王攘夷」は歴史的機能を果たし終えることになるのである。また、幕府は事態の収拾を図るべく、老中の安藤信正を中心に「激派」を懐柔しようとする。しかし、「五品江戸廻し」令、大判・小判の海外流出、物価騰貴、綿花栽培・綿糸・錦織物の国内生産の壊滅的打撃などの情勢により、「攘夷」は政治スローガンとなりえたのである。安藤信正も信仰的攘夷派の水戸浪士に襲撃されるが、桂小五郎久坂玄瑞ら長州志士たちは抜本的な運動を展開していたのである。桂・久坂らは水戸藩激派との折衝を始め、その結果全国多くの諸藩で勤王党が結成されます。この段階では、ほとんどが倒幕の意図を持ったものではなく、意図がはっきりしているのは長州の少数松門だけだった。

 変革の障壁として、島津久光公武合体運動と長州藩公武合体路線が挙げられる。また、久坂玄瑞は「廻瀾条議」や『解腕痴言』を執筆するのである。
「廻瀾条議」とは、
1.吉田松陰の遺骸を改葬、「忠烈節義」「殉国の志」として顕彰し、長州藩内での意見の正誤をはっきりさせること
2. 井伊直弼以下の閣僚は厳罰に処さねばならない
3. 安政五年以降の諸条約を下田条約まで引き戻し、外国貿易は長崎・下田・箱館に限定
4. 「大義をもって論ぜば」幕府を「誅戮殲滅」させても良いが、朝廷が将軍の過誤を改める機会を与えられたから「長薩二藩」その他が越前・一橋の両者を「督責」し、2.3項を実行しなければならない
5. 朝廷に「御政事所」を設け、また「御親兵」を配置し、「天下の御威権」を朝廷に帰すべき
 ただし、順序が大切であり、まず4項を達成できるようにし、もし「承服つかまつらずば決闘死戦と御勇決猛断」をなさねばならないというものであり、これは師の松蔭を正当に次ぐものであり、久坂玄瑞にも吉田松陰と同じ「開国」と「攘夷」の二つの思想が存在しているのである。
 『解腕痴言』とは、久坂玄瑞の危機意識が強烈であったため、死中に活を求める攘夷が緊急で必要としている、他方で攘夷という主張が政権を幕府から朝廷へ回復させる目的から、政治戦略的に有効だとしている。
 久坂たちは関白鷹司輔煕に働きかけ、「攘夷」の期限の設定で幕府に逃げ口上を許さないこと、「御政事所」としての実質の確立を迫った。結果としてそれらは実現し、朝廷の指導権は長州に握られる。
 久坂は幕府が決めた期限に攘夷の第1砲を撃つ事によって幕府を追い詰めようとする。光明寺の有志隊が米仏蘭の艦船に砲撃を加えた。これによって、米仏蘭英による長州藩攻撃が決議される事になる。
 また、薩摩藩でも偶然に生麦事件が発生して、英艦隊が薩摩を攻撃する事態になっている。久坂はこの事態が発生するとは想定していなかったはずである。
 ところが松門の意図的攘夷は結実することになる。これらの事件に対する幕府の対応が旧体制そのものであり、それが外部に暴露されると日本の主権者としての幕府が、対外的にナショナルな課題を遂行しようとする熱意も実力もないことがはっきりしてくるのである。
 情勢は松門流の尊攘派にとって一時的に有利になったが、八月十八日の宮廷クーデタによって、長州系公卿たちと長州の親兵勢力は排除されてしまうのである。このクーデタによって朝廷に義理立てられた幕府は、「攘夷」だけは本心の天皇にお返しをすることになり、久坂らが要求していた「横浜鎖港」を実行するふりをするのである。

(記:神津拓希 公共マネジメント学科3年)

 

【8章】

 第8章「維新変革の歩み2」について見ていきたいと思う。

 文久3年(1863年)8月18日の宮廷クーデターのあと長州勢は都落ちしていくことになる。他方、幕府は後見の一橋慶喜ほか、松平春嶽山内容堂、伊達宗(むね)城(なり)、松平容保島津久光の6候での朝議の参与を構成することに成功し、それにより公武合体派が天下を圧する一時期が出現したが、根本問題は矛盾をはらんだままであるため、ここで反体制派が有効な対抗クーデターを敢行すれば、局面は必ず逆方向に傾くというのが、久坂らの判断であった。

 クーデターについて久坂の初期の考えは、天皇御親政の詔勅のもとに全国草莽の志士により、討幕は成ると考えていたのだが、天皇が幕府と結びつく最大の障害だと分かると、強力な一藩(長州)が藩公以下全藩を挙げて、天皇に諫争(かんそう)をせまらなければならないと考えた。これには、真木の影響がある。

 ここで真木の思想について触れていきたいと思う。真木は山県大弐と似た反幕思想を持っていた。それは、封建制世襲身分制を廃止し王政復古のもと統一国民国家をつくることである。そんな真木の攘夷概念は松陰やその門下とも違った一面を持っていた。神道的な「まこと」或いは真心の哲学に徹していた真木のいう攘夷とは、第一に真心を持たぬ幕府に向けられたものである。ただ、これだけではなく横暴な力を行使されたときには夷荻を払わねばならぬという意味での攘夷も含まれている極めてリアリスティックなものであった。

 長州で京都進達を久坂・真木が説いているときに池田屋事件の知らせが届いた。この事件が長州藩を挙げての進達の最後の一押しとなるのであった。久坂や真木らが先に京都に着き、世子(せいし)定弘が数万の兵を引き連れ向かっている最中に禁門の変が起こることとなる。これは、真木が天皇を諫争(かんそう)するためには自分達、長州先達隊が死ぬことで諸大藩が倒幕に立ち上がる情勢が生まれるだろうとの思惑があった。結果として幕府転覆への障害を取り除く機運を生じさせることに成功した。

 倒幕への機運が生じたのはいくつかの要因が組み合わさったことにある。まず、長州内部の要因。禁門の変後、下関戦争や長州征伐により四面楚歌に陥ることになった。その結果、藩内の実権は俗論派が握るが、高杉晋作による功山寺決起により俗論派は一掃され、正義派が主導権を握ることになった。これは、依然として松陰思想の主導力を示すものであった。

 次に幕府内部の明敏な達眼の士の存在である。阿部正弘時代に登用された大久保忠寛勝海舟が重要な役割を果たす。特に勝は、大久保忠寛流の合議政体思想を現実性をもって幕末史に大きな影響を与えていくことになる。

 また、薩摩藩内の洋学派藩士の存在も欠かせない。五代友厚松木弘庵といった藩士尊攘派には属さず、経世的洋学の洗礼を受けた人物であり、英国との突発的な戦争の後に水戸学的尊攘派に変わり藩政に大きな発言力を発揮するに至る。

 さらに、英仏の関係がある。ナポレオン三世のもとフランスは、世界史的にはイギリス主導の自由貿易主義の傘下に入り、日本に対しても当初はイギリスと協調路線をとっていたのだが、極東政策を積極化する中で幕末の3年間はイギリスと競い対日貿易を急成長させた。イギリスは各地の植民地経営に莫大な費用が掛かることから、貿易による利益を追求する政策に転じていく。その結果、幕府側に付いたフランスに対抗しようとし、実際に戦った薩長の反幕勢力に日本の市場の将来をかける態度に出たのである。

 最後に、極めて重要な内部要因である、当時の経済情勢よりする一般民衆の動向だ。物価の高騰や重い軍役の賦課が掛かり、世直し一揆が激増していった。

 その中で重要な意味を持つ二人の人物の死が起こる。それは、将軍家茂と孝明天皇の死だ。家茂の跡を継いだ慶喜は幕政改革を推進していく。これが結果として薩摩の離反を招き、幕府の瓦解を早めてしまった。幕府に政権を委任し続けようとする孝明天皇の死は、王政復古という形でナショナルな変革を企図(きと)していた討幕派にとってまさに天祐であった。

 慶応三年(1867年)一月に少年天皇(後の明治帝)が即位することになると、倒幕派諸公卿・親王が朝廷復帰し、朝議はかれらの望む方向へ操作されることになる。この状況転換によって、これまで不可能と見えていた大久保忠寛の合議政体思想がようやく陽の目を見ることになっていく。ただ、久坂らの松陰門下がリードし、薩摩まで合流するに至った武力討幕路線と、坂本龍馬が忠寛・勝の構想で動かした土佐藩の平和革命路線の二つが角逐していくことになるのだが、ほぼ同時に朝廷工作に成功する。しかし、薩長は倒幕の密勅を12月2日まで土佐側に知らせなかったため、結局薩長の路線が実現していくことになる。

 以上のような事態の進展の中で、水戸流の信仰的攘夷思想ではなく、松陰などの自覚的攘夷思想が、普遍的な主張へと成長していった。

(記:漆野優輝 公共マネジメント学科3年)

 

 【9章】

 この章で著者は明治国家より変革そのものが偉大であるという主張を明らかにしている。それではまず御一新の改革とは何か説明していく。

 形式的にいえば、「御一新」が始まるのは、慶応3年12月9日の「王政復古の大号令」からである。それまでの幕藩体制や、朝廷の摂政・関白制などを廃止し、「神武創業の始に原づき」天皇親政に移行した。

 新しく権力を握った志士たちは、国内的には「一君万民」の統一国民国家を作り出すこと、対外的にはナショナルな実力向上の最高能率を目指したのだ。

 明治7年前後には新政府自身が、自由民権思想を平易に説いて国民を啓蒙するパンフレットを、全国に広く配布。「一君万民」であるが故に「四民平等」、また自由民権の伸長を解かねばならぬ、とする基本的態度が生まれた。旧幕臣開明派も君主制を肯定し、この官民一体となった民権思想がはばひろい自由民権運動の高まりとなって現れ、そこでしばしば天皇の権威が、政府に抵抗する人民の権利を保障するものと信じられていたのだ。

 旧将軍家およびそれになお忠誠を捧げる諸藩を、武力で屈服させることに成功したあと、長・薩の変革の主体は、直ちに土佐派の公議制案をとにかく実施する。しかし公議所に出てくる「公議」なるものは、旧諸藩の古い意識によるものが多く、結局「御一新」の基本的諸政策がほぼ行政府によって布告され終わった後に、公議所は廃止となった。

 その後「御一新」の変革主体は戊辰戦争に向けて対外的な防衛措置をとる。つまり旧幕府の締結したすべての条約を遵守することを諸外国に通告するとともに、交換条件のようなかたちで諸外国が戊辰の国内戦争に局外中立をとるように働きかけ、成功した。

 対内的には全国諸藩で藩体制の改革を推進させたあと、廃藩置県を実施する。その後、身分差別の禁止、職業選択の自由が宣言され、学制の公布によって全人民の平等な義務教育が法的理念となった。さらに人身売買禁止等、そして明治5年11月には、徴兵令の告諭が出されるにいたる。

 この徴兵の告諭は華族・士族・平民という呼称が身分差別を意味するものではないことを明瞭に宣言し、「一君万民」というイデオロギーによって、封建的身分差別をいっきょに撤廃した。

 しかし「御一新」には評価すべき事柄の反面に、ある種の危険もはらんでいる。それはいかなる政治思想も、権力を握れば専制政治に転化するという可能性である。とくに「一君万民」政治思想は、いったん天皇を神秘的崇拝の対象としてしまうと、その天皇の名による政治権力に対して、人民側の批判・抵抗を極めて困難なものにしてしまう。

 また明治維新を語るうえで高度経済成長と宗教の自由は欠かせない。幕藩経済体制から脱却したあと、明治40年間のあいだに、世界史上まれにみる経済諸生産の高度経済成長、それを遂げられたのには複数の要因が考えられる。一つは義務教育性の成功、二つは身分差別の撤廃により、人間の解放への欲求とエゴイズムとが、ナショナルな要請と合致したときに発揮される奮起である。

 そして宗教問題にも動きがあり、他の集団による変革のイニシャティヴが成功し始めたことで、その大勢を助長する母体として国学の復旧が役に立った。そうであるだけに国学の影響下にある公卿たちの、神道を国教にして他教を排すべしとする主張を志士たちは直ちに峻拒することはできず「キリシタン厳禁」は明治6年まで持続された。しかし主導的志士は、公卿たちの主張を、官制の上でくつがえしており、狂信的神道家を抑制する方策が徐々に実施され、後年祭祀と信教を分離して信教の自由を規定した。

 「御一新」の変革は大きな成長を促すとともに世界史的なやり損じを生じさせた。「御一新」の志士たちはどんな法律があったかもまるでわかってない「神武」時代を持ち出すことによって、新政府内の力関係の推移とタイミングを合わせて、古法を創造的な法令で置き換えた。しかし状況へのプラグマティックな対処という彼らの能力は重大な過誤も犯してしまったのだ。日本を西洋列強と同じ「富国強兵」にすることによって、西洋と対峙すべきだと結論付けてしまった。日本のアジア諸国への進出は、外面的には似てくるとはいえ、けっして帝国主義政策をとるためのものではなく、アジアとともに対西洋の共同防衛をすることが目的であった。しかしかつての変革の志士たちは、変革が成って権力を握ったのちはみずからが、アジアに対する西洋列強の地位に仲間入りしていった。

 ここまで「御一新」の変革についてみてきたが最も評価すべき側面は、日本人民の伝統に根付いた、自力による変革であったこと、また旧身分の違いや世代の差をこえた協力がせきを切ったようにあふれ出ていったことである。具体的には「御一新」の目指す理想が人民にとらえられるや否や、それが新政府をはなれて人民の側に自律的運動を引き起こし、その理想を楯にとって政府に批判・抵抗する国民運動が、活力にあふれた展開をみせたのだ。そんな運動を起こしていた人々の一人に増田宗太郎という男がいた。

 増田は水戸学を学び、王政復古後、中央政府が信仰的な意味で攘夷を実行しないことに憤りを感じ、その元凶のひとりとみなす福沢諭吉の暗殺を企図する。しかし殺す前に論難しようと福沢邸に乗り込んだところ、逆に説き伏せられ、西洋の長所を学びとらなければ、西洋に対抗して皇国の独立を全うすることはできないと考えを改めたのである。

 慶応義塾で学び始めるも半年もたたずに故郷へと帰り、旧身分の差を無視して人材を重視する「中津皇学校」を設立。しかし後に中津にある三つの私塾を統合した際、学生たちの気風が異なったため、激しい反目が生じた。そのときに増田は国内で無意味に争って内憂を広げるべきではなく、真に争うべき相手を、見定める必要があることに気づく。そしてかれは桐野利秋との数日の談合が契機となって、民権伸張してこそ国権待ったし、という結論に到達するのである。再び慶應義塾での勉学を経て、「田舎新聞」を創刊しはばかるところなく自由民権の啓蒙をおこなった。新聞創刊わずか数か月後に西南戦争がはじまり、増田は西郷軍の救助へ向かったが、最後は西郷らとともにたおれた。

 これらから私は、明治維新とは自分の意見、主張を述べ実現させようとする動きの活発化、すなわち国民が国家を形成する近代国民国家への歩みであると捉え、この変革の重要性の一つとしてこれまでの幕府政治の流れを当てはめることができない独自の成長過程があげられると考える。これまでの幕府や藩といった狭い視点から国を主体としたグローバルな視点へシフトし、世界情勢に適応するため試行錯誤を国民全体で行うこと、そのための活気を生み出すこと、そしてそれらを短期間で実現させることは現代社会においても必要な要素である。私は本書をとして今の社会にも明治維新には参考にすべき点、危険性や過誤から学べる点が数多くあると感じた。

(記:野尻航平 公共マネジメント学科3年)