長州の政治経済文化(11)

 鮎川は満洲重工業開発の顛末について次のように語っています。

“重工業建設に邁進した”と思われているが、白状するが、実際に満州に赴いてから暫くして農業開発に切替えようとした。資源の種類は多彩でも量の点で重工業建設など思いも及ばない状況であった。高埼達之助君の判断を求めた結果、農産物輸出が可能との判断となった。北米式大農法を米国の日本人2世を受容れて実施する事にした。本計画は政府要人の了解する処であったが、軍は真っ向から反対で中止させられた。

2011-ayukawa.pdf (jahfa.jp)

 大農法導入への「軍の反対」の根拠は、前回触れた軍の「500万人規模の日本人入植計画」にあります。大勢の日本人が入植すればおのずと日本の小規模農家をそのまま(もしくは若干拡大して)移植することになります。この石原莞爾の構想は日本人の「先祖代々の土地」への信仰に近い思いを反映しており、かつ、アメリカ式の大規模農業が日本人の農慣行に合わないという直観に基づくものであったと思われます。

 一方、「実際に満州に赴いてから暫くして農業開発に切替えようとした」と述べて事実上、「絵に描いた餅」に近いものであったことを鮎川自身認めている重工業開発について、清水榮一氏は次のようにコンパクトにまとめています。

資源開発から重工業建設に至る総合開発は国内の歳出額を遥かに超える巨大プロジェクトで、因みに自動車は50千台、航空機は10千台の目標であった。1937年、日本産業満州に移駐し満州重工業開発の総裁に就任。在満系企業31社、在日系63社、計94社、合計払込資本金は22億7千万円。一方、三井系企業は13億6千万円、三菱系企業は12億6千万円。“日産が日本中を明るくし”との川柳まで生まれた。

2011-ayukawa.pdf (jahfa.jp)

 川柳「日産が日本中を明るくし」は、1937年の日産のカラー無声映画広告(1937 Nissan Phaethon advertisement - YouTube)を見るとなるほどと思わせるものがあります。その実態はともかく、時代の閉塞状況を切り開くカギが、新興財閥である日産コンツェルン中心の満洲における重工業開発にあるとの「思い」が漲っています。

 ちなみに同じく清水榮一氏の記事によると、日産コンツェルンの既成財閥との違いは、①株式公開(既成財閥〔以下同〕;封建的な同族所有)、②重化学工業中心(金融、商事、軽工業)、③技術系出身者の陣頭指揮(商人、金融業者)、④積極的な新技術開発、海外展開(保守的傾向)、⑤革新官僚や軍需系主体との連携(藩閥政治家系主体)、とまとめられています。

 鮎川自身が出自の点では「藩閥系」であるわけですから、その革新の意義も増してきます。もっとも、そもそも幕末維新の経緯からして、既成観念を打ち破る革新、改革、維新の動きそのものが「長州の政治経済文化」の特徴といえるのかもしれませんが。