長州の政治経済文化(2)

 鮎川義介(あゆかわ・よしすけ 1880-1967)という、山口・大内出身の実業家・政治家(鮎川義介 - Wikipedia)がいまひそかに(?)注目されています。

 

 そう目立った形ではないのですが、2010年代以降、ネット記事や研究書、伝記等で鮎川が大きく取り上げられています。

 

日産自動車、日立製作所をつくった 「重工業王」鮎川義介 | 月刊「事業構想」2015年5月号 (projectdesign.jp)

第Ⅱ期 遅れた列強入りと、その中での生き残りを賭けた時期 (works-i.com)

日産クーデター!創業者の叫び⑤ 日本人にもできる!産声をあげた日産 : BRIDGE ~石井希尚(MARRE)の歴史/時事ネタブログ (livedoor.jp)

 

鮎川義介と経済的国際主義―満洲問題から戦後日米関係へ― | 井口 治夫 |本 | 通販 | Amazon

鮎川義介《日産コンツェルンを作った男》 | 堀 雅昭 |本 | 通販 | Amazon

日産の創業者 鮎川義介 | 勝, 宇田川 |本 | 通販 | Amazon

 

 Wikiの記事にもあるように、鮎川は経営指南書、人生指針、随筆集と多彩な書籍を残していますが、ここでは彼の代表作といえる『物の見方考え方』(実業之日本本社、1937年)、および晩年の回顧録を収録した『私の履歴書 経済人9』(日本経済新聞社、1980年)から、鮎川自身の言葉に即して彼の考え方を少し紹介してみたいと思います。

 

 私の生まれたのは明治維新の革新後程遠くないころである。それに私の生地は、維新に引き続いて盛り上がった藩閥政治の一方の雄となった長州、しかも吉田松陰久坂玄瑞、高杉東行その他多くの義人、志士を輩出した萩藩の橋頭保、山口である。私の血の中には、萩藩有数士班の家柄に嫡男として生まれたというプライドはもちろん、土地柄としても幕府に対する「反骨」の伝統的血脈が脈うっていたに違いない。

 このように鮎川は「私の履歴書」(1965年連載)冒頭、長州人としてのアイデンティティを表明しています。「履歴書」末尾では次のように日本の将来を危惧しつつ、「人づくり」に力を尽くしたいと表明していますので、そこでは名指しこそしないものの、松下村塾の精神・伝統が彼のモチベーションを形成しており、それが「履歴書」の通奏低音をなしているとも言えるでしょう。

つらつら次代を背負う若者たちの今の傾向を見ると、独立国日本としての将来が危ぶまれるようだが、私はトドのつまりそれは杞憂に過ぎないと思っている。なぜかというと、この現象は敗戦という因がもたらした当然の果であり、国としていづれはこの果実の毒素に耐えられない時点に遭遇するであろう。そのときはきっと固有の大和民族の血が、これに打ち克つだけの潜勢力を破棄しないではおかないものがあるからである。おそらくそれは革命というプロセスによって打ち出されるものだと思う、祖国を愛する若い勇士の手で……。私のような老骨は今更出る幕ではないから、せめて後進の人づくりのために役立ちないと思う。

 ここで言う「革命」とは「維新」とほぼ同義と思われます。「履歴書」が連載された1965年当時、鮎川が具体的に「若者たちの今の傾向」の何をもって「独立国日本としての将来が危ぶまれるようだ」と評しているのかは定かではありません。「履歴書」でも述べられている彼自身の生涯、とりわけ若いころの身の彼の振り方を見ると、新たなことに挑戦する気概や西欧諸国に負けない日本人としての自負が漲っていますので、そうしたものが現代の若者に欠けてきていることを、齢84歳の鮎川は危惧していたとも思われます。

 「大和民族の血」とか「革命」という勇ましい語は非合理精神の反映とも受け止められます。しかし彼の生涯にあらわれる鮎川の生来の気質は、一見不合理で突拍子もないように見える行動を示しながらも、その裏側に次元の高い合理性を秘めていたものだと捉えることができます。今でも形に残る(日立金属 【通販モノタロウ】 (monotaro.com))鮎川の実業精神は、彼の卓抜した表現とともに、ものづくりの粋を凝縮したものだと言えるでしょう。また「満洲」との彼の関与の仕方にも冷静な判断能力を垣間見ることができます。

 何よりも、ものづくり、そして「人づくり」に尽くす彼の姿勢には、相手、あるいは社会全体のために自身の能力を用いようという高い倫理精神を読み取ることができます。(続)