長州の政治経済文化(6)

 1910年、鮎川は戸畑鋳物を設立します。可鍛鋳物をいち早く導入したものの、注文とりが難しく、赤字続きとなったようです。ようやく呉海軍工廠の演習用銑弾の注文を取り付け、砲兵工廠の技師を引き抜いて一任したものの、納品がすべて不合格となってしまいます。

  ここで鮎川はまた現場主義を発揮します。図書館に通い欧語文献を渉猟して砲弾づくりの秘訣を把握し、これを件の技師の前で実演、合格品を射止めます。それまで銑弾づくりの経験のなかった鮎川を軽蔑していた件の技師は、このときから鮎川に恭順の意を示すようになりますが、その技師、岩沢市松はのちに米国での研究をへて、戸畑鋳物が帝国鋳物から継承したロール製造に工務部長として携わり、一躍名をはせることになります(日立評論1958年11月号:鉄鋼製品の歩み (hitachihyoron.com) 鋳物事業の現状と課題 (sokeizai.or.jp))。

 しかし経営難は続き、出資者のめども立たなくなっていたところ、戸畑鋳物と(義弟の経営する)久原鉱業監査役を務めていた藤田小太郎(萩出身の実業家、藤田伝三郎の甥)の未亡人文子からの融資を許されます。このときの感懐を鮎川は次のように、戸畑25周年の祝賀式で述べています。

古来、事業をなすには天の時、地の利、人の和と言い伝えられているがこれを貫くに"至誠"をもってしなくては事業の成功を期することはできない。私は平生からこの点に留意して人に接し、事業の運営にあたってきたつもりである。至誠は天地を揺がすという諺の通り、人間、至誠に終始すれば、絶体絶命の場合には、必ずや強力な支持者が背後に現われ(仏法でいう影向)起死回生の果報が授けられるものだ、と私は信じている。どんな新事業でも創業から数年の間には、人生ならば九死一生の境地ともいうべき危機に遭遇するもので、これは避けられない。かかる危局を打開していくには、ただ経営者の手腕や努力だけで乗り切れると思うのは間違いである。