長州の政治経済文化(4)

 井上候に「貴様はエンジニアになれ」と「申し渡」された鮎川は、「立身出世」に燃えて山高卒業後、東京大学工科に進学、ところが卒業時、井上候から三井入りをすすめられたにもかかわらずこれを辞退、「政界、財界多数のエリート」に「二重人格の人が多」く「私が進んで使われてみようという風格の人は見つからなかった」という理由で、「福沢〔諭吉〕先生の独立自尊で行くことだと決心」し、井上の賛同も得て、「素性」を隠して芝浦製作所〔現東芝〕の一職工としてスタートを切ります。

 かくして初任給は、日給四十八銭(当時、工学士の月給はおよそ四十五円)の仕上げ工として採用された。ところがしばらくして私の素性がバレて、思惑がはずれた。というのは、私が手伝った起重機の操作を誤って、相棒の足の親指をおもりでつぶしてしまったのだ。工場ではさっそく彼を病院に入れて手当てしたが、その間、私は始終彼を見舞った。そんなある日、〔大学進学以来身を寄せていた〕井上家に恩賜の菊のご紋章入りのお菓子が届けられた。これはいいと思って 一片を頂戴して、病人をねぎらったところ、その紋章から足がついて私の素性が知れたといった次第である。そうなると仲間の職工連の態度がガラッと変わって、今まで通り気やすく付きあえなくなった。私は間が悪くなり、許しを得て他の職場に異動することにした。機械、鍛造、板金、組み立てなどを転々として、最後は鋳物工場に落ち着いた。

  工学士平均のおよそ4分の1ほどの月給に甘んじるというのは並大抵の決意ではできないでしょう。それだけ鮎川は「現場からの叩き上げ」にこだわったと言えるかと思います。

 この「最後に辿り着いた鋳物工場」が彼の実業家としての最初の大きなキャリアにつながっていきますが、この文字通りの現場の下積み時代、鮎川は内職で手伝った新聞社の輪転機据え付け工事で、職人の着ていた和服のたもとがベルトに巻き込まれないようにするために、ベルトを天井吊り下げ方式から床下伝授方式に変えることを提案し、設計も手掛けて負傷率を下げることに成功します(これにより感謝状と300円の賞金を獲得)。

 鮎川は職工時代にも名門子弟との交流をもちますが、そのとき彼は「上流社会の内情」を知り、かつての金科玉条「立身出世」を疑うようになります。その結論は、

おれは絶対に金持ちにはなるまい。だが大きな仕事はしてやろう。願わくは人のよく行い得ないで、しかも社会公益に役立つ方面をきりひらいて行こう

というものでした。

 こうして鮎川は、日露戦争後、横浜港からデコタ丸の「船尾のスクリューに接した穴蔵のような移民向けの追い込み部屋」に乗りこみ、職人修行のためアメリカに向かいます。