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全人的教養を目指すゼミ@下関の活動報告です

【思想史・制度史研究会(地域文化研究会)】長州の政治経済文化⑦

 藤田家融資による戸畑鋳物の蘇生後、第一次世界大戦の特需が業績を向上させます。このころ鮎川は、戸畑で製鉄事業設立を構想、これを「東洋製鉄」に吸収させ、さらに終戦後、八幡製鉄所が東洋製鉄を合併・事業拡張するという展開となります。

 また鮎川は、桐野炭鉱(大之浦桐野炭鉱第二坑)でガス爆発事故を起こした貝島鉱業の経営改革に、貝島家の興隆が井上馨(および三井財閥)に負うものであった縁から取り組むことになります。

  貝島家と鮎川との関係は非常に近く、創業者の貝島太助井上薫と懇意だった関係もあってか、その四男の後継者貝島太市に鮎川の妹フジが嫁いでいます。

 貝島家は「顧問は永代、井上家の当主をもってする」との家憲をもっていたようですが、井上の養嗣子となった勝之助が外交官であり「その器にあらず」という理由で、鮎川に顧問代理の仕事が依頼されました。経営改革に着手するのは1917年の年明けのことであり、日本の炭鉱事故でワースト3に入る大事故は同じ年の12月のことです。

 爆発事故の原因を検討する中で鮎川は「他事業にくらべてより多くの下級労働者を要する炭鉱業は、彼らに対し特に災害の防止、待遇の改善を図らなければ将来やっていけなくなる」ことを認識、このことを講話等の機会で強調します。「欧米に於ける現代の労働問題と社会政策」と題した、貝島一族を前にしての講話では、労働組合法、国際労働規約から説き起こし、「世界の思想は君主専政から貴族主義ー軍国主義ー資本主義ー社会主義に移行しつつあること、それに平行して日本の趨勢は資本万能時代から民本主義漸進時代ー労働者有勢時代ー資本主義恐怖時代に至るであろうこと」を述べたといいます。

 同族支配を改めて三井、三菱のような大手筋に見られる人材登用の導入、「一人一事業」の原則の導入、いいなずけ話の翻意の説得など、「今、当時を回顧すると、よくもこんなことができたと自分ながら不思議にたえない」と鮎川自身が述べるほどの大改革をやってのけます。

 この改革は貝島家の事業改善をもたらします。それだけでなく鮎川は、貝島・戸畑両方の巨額資金を財閥に関係のない日本興業銀行に預けるにあたって「貝島不時の所要に対してはいつでもできるだけ融資すること」を条件として認めさせることに成功し、そのことによって当時三井に握られていた貝島の売炭権を奪回して「太助翁、生前の嘆声の因を除」き、これを太助の墓前で報告することになります。