長州の政治経済文化(3)

 地域独特の気質もさることながら、生来の、そして環境の中で育まれ受け継がれる気質をうまく引き出して「人づくり」を行うためための原動力となるものとして、教育支援のための体制整備も挙げられるでしょう。その意味で鮎川の次のような記述は参考になります。

 …人間の感受性には人それぞれの違いがある。それは遠い祖先からうけ継がれた"血"に依存するものだ。ところで、人間の経験は蓄積資本とみることができるが、その型と質量は血筋が通り過ぎた環境によって変化する。したがって"遺伝”によってその環境に対する反応の仕方に「異同」を生ずるのは当然だということにもなろう。私の場合も、人生の初めにおいて見せつけられた親の生活状態が私の心を打ったが、その反動の波もこの"血"が震源地となっていると思う。それに加えて、私の先祖の住み慣れた萩固有の風土、すなわちかつては吉田松陰前原一誠高杉晋作、近くは野坂参三、志賀義雄を生んだ反骨思想の温床の影響もみのがすわけにはいかない。 

 松陰の高弟らと、萩出身とはいえ鮎川よりも年下の、戦中戦後の日本共産党の幹部らとをならべて「反骨思想」のもとでひとくくりにするのはなんとも独特ですが、たしかにそれまでの日本にはなかった新しい思想・行動をこの地の出身者らが生み出したという事実、そしてそれに連なるのが鮎川自身だという自負は、後の時代からみて、政治的立場があまりに違いすぎるではないか(もちろん、そんなことはない、という解釈も成り立ちますが)という指摘を超えて、普遍的な「長州人気質」の一端を言い表しているように思います。

 鮎川の言う「親の生活状態」というのはおもに、廃藩置県後「貧乏士族」となった鮎川家の窮状を指します。序弱体質ゆえに軍人になりえず、下級県吏や防長新聞の校正兼会計で生計をかろうじて立てていたにもかかわらず、士族気質が抜けなかった鮎川の父彌八に対する記述は、家庭環境に関する記載を除き「履歴書」にはほとんど見られません。これとは対照的に、母仲子に対する並々ならぬ愛情は、控えめにではあれ「履歴書」の端々に表れています。これは単に大叔父である井上薫の存在だけによるものではなく、父彌八のプライドと現状への不満から来る家庭内での度重なる葛藤にも起因すると言えそうです(※)。

※ 後年、リウマチになった彌八のために、鮎川は別府に養生のための別荘を作ります。1923年、42歳の鮎川は東京の自宅で関東大震災に被災。共立企業の構想が難航していたこともあって、神経衰弱を患い、鮎川はこの別荘で自身も療養します。(6/7付記)

 「反骨」は鮎川少年の中ではまず父に対して起こったもののようですが、それが最初に形を結んだのが「立身出世」への強い意欲でした。これがのちに思わぬ方向へ向かって展開していくことになるのですが、鮎川自身の「立身出世」への意欲を果たすためにも大きな役割を果たしたのが、井上薫が設立の発端となり、明治の山口における人づくりの基盤ともなった「防長教育会」です。

…私の郷里山口県には井上候の肝いりで防長教育会が早くから創設され、他府県に先んじて育英資金が整備されていた。一方、先生も一流人物を網羅するため、高給を出して中央から招聘した。したがっていい先生が安んじて教育に没頭できたわけだ。われわれがその恩恵に浴して、成長し得たのはもとよりである。

 ちなみに旧制山口高等学校で、西田幾多郎がわずかな期間ドイツ語を教えていたのは地元民にはよく知られている事実ですが、「山高」を講話のために訪れた井上(その際井上は鮎川に「貴様はエンジニアになれ」と「申し渡した」そうです)が鮎川を北条時敬教頭の校宅に連れて行ったところ、「北条さんの書生」をしていて「気やすく出入りしていた」西田もそこにおり、鮎川は西田について「見るからに無精ヒゲの朴念仏で、他日"西田哲学"をうちたてるほど偉くなろうとは思わなかった」と述べています。