長州の政治経済文化(8)

 戦後の鮎川は中小企業問題にもっとも集中的に取り組むことになりますが、その萌芽はそもそも、大学卒業後、井上馨から三井入社を推薦されたのを断り、一職工としてキャリアをスタートさせたことにあると言えるでしょう。また、顧問代理として貝島の経営改革に取り組んだ際にも、「一族一事業」でなく「一人一事業」とし、人材登用を進めて財閥体質を改めさせています。こうした現場主義、中小規模の独立主義が、鮎川独自の経営思想であり、それが戦後の中小企業問題への取り組みにつながっていくわけです。

 1922年、鮎川は持株会社「共立企業」を設立します。ここにも独自の経営思想が反映されることになります。

これは一つの目的があった――私の本拠たる戸畑鋳物の事業は、その後大きく伸びたが、それにつれて人事関係がめんどうになってきた。人がふえるとともに上がつかえるようになったのだ。たとえば部下によりよい人材がいて、上の人間と取りかえたいと思っても、伝統的人情はそれを許さない。そこで、これをさばくため、色々の業種の別会社を設立して、そこに上の人間を送り込むことを考えついたわけである。縦の形を横に広げる――富士山型を捨ててアルプス連峰型をとることにしたのだ。こうすれば個々のプライドは捨てずにすむし、また適材適所主義が行われやすくなる。

 「色々の業種の別会社を設立して、そこに上の人間を送り込む」ことそのものは財閥企業の常套手段でもあるでしょう。しかしこれを「富士山型」に対する「アルプス連峰型」と称するところには独自性があらわれています。個人の能力を最大限引き出すため、中小規模の事業を複数起こさせ、かつ独立性と連携とを増す。こうすれば、財閥企業のようなヒエラルキー支配でなくフラットでありながら、個々の要素が有機的に結びついたダイナミックな事業展開が可能になるように思われます。

 こうして「現場主義」「中小規模の独立主義」「適材適所主義」を、のちの鮎川の中小企業問題への取り組みの基本思想として取り出すことができるでしょう。

 「共立企業」という名称そのものにもこうした思想ははっきりとあらわれています。そして実際、当時の鮎川の重要な仕事として、東亜電機(電話機)、安来製鋼(和鋼)があります。いずれも「大戦後の落伍企業」のうちから選りすぐって、戸畑の分系事業として蘇生させたものに当たります。

 

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