【思想史・制度史研究会(地域文化研究会)】第二回研究会

 7月30日に「思想史・制度史研究会(地域文化研究会)」第二回目研究会(オンライン)を開催しました。以下、当日の報告・意見交換の概要です。

 1.意見交換

「地域教育について」

提案:桐原隆弘 コメンテーター:林真一郎 氏((有) ウエストランド 下関市議会議員)

 

(概要)

 一般に「地域教育」は、学校だけでなく地域ぐるみで児童生徒の教育にあたることを意味していますが、ここでは「課題解決型地域教育」として、おもに学生が地域のかかえるさまざまな課題を地域住民と共有し、その解決にむけて主体的に取り組む試みを提案しました。

 地域課題は多岐にわたりますが、ここでは学生時代に居住する「下関」の歴史について理解を深める教育・研究活動を例として挙げました。幕末の激動期に30年近く萩藩主であった毛利敬親(たかちか)に注目し、維新において防長の全体が一丸となるエネルギーは、天保改革時に藩主が倹約の姿勢を身をもって示し、文武奨励策、財政政策、社会事業を次々と打ち出し、村田清風はじめ適材適所の人材登用を行ったことに起因するのではないかとの意見を述べました。また、白石正一郎の拠点竹崎周辺に維新の本来の「発祥の地」があるのではとの見方から、古地図と現在の地図との比較も交えて、地域の歴史を現代の観点から立体的にとらえる試みも提案しました。

 コメンテーターの林真一郎氏からは、櫻山神社責任総代としてのお立場から、まさにその竹崎・伊崎新地エリアに位置する櫻山神社の重要性、および、幕末のわずか10年間程度(とくに西暦で言う1860年代)のきわめて重要な歴史が下関に詰まっており、学生のみなさんにはぜひこれを積極的に学び、下関への愛着を深めてほしい、とのご意見をいただきました。

 

(付記)

 下関は「明治維新発祥の地」といわれることもあり、奇兵隊などに参加なさった方々の子孫にあたる方々もお住まいです。外から下関に来て住んで10数年たっても、下関のとくに幕末維新史についての理解は、ある程度主体的に関心を持ったとしても、なかなか深まっていかないのが実情です。そこでとりあえずの手がかりとして、歴史教科書の記述やかつての観光用地図などを活用して、それらに記載されている内容を、専門書やゆかりの地を「歩く」などして深く掘り下げるというやり方が考えられると思います。

 下関市大には、かつて、明治維新をおもに経済学や経営学の観点から研究する方がいらっしゃいました。

・故・小林茂氏 幕末期下関と北前交易 (jst.go.jp)

・平池久義氏 長州藩における撫育制度について : 組織論における革新の視点から (yamaguchi-u.ac.jp)

 天保改革期の「撫育方」(ぶいくかた)や「越荷方」(こしにかた)により、維新事業を賄うに足る財源を、倉庫業・金融業・委託販売等を兼ねた総合商社的な事業展開(越荷方)、および本会計と分けて社会事業や公共事業費に充てた別会計(撫育方)から捻出したとされています(平池論文;なお平池論文は歴史論文ではなく、維新史の事績を経営組織論に応用することを意図したもの)。

 また、下関港といっても「東」(阿弥陀寺豊前田)と「西」(竹崎~伊崎新地)とではずいぶん様相が異なり、東側(長府藩管理下)の厳しい問屋規制のもとでの公式通商(北前船)と、新規に港湾整備された西側(清末藩ないし萩本藩管理下)の、近隣長府藩の管理統制を免れた自由な通商の展開との違いが見られ、これが竹崎の白石正一郎邸宅を拠点に維新志士たちが活動したこと、そして藩論転換のための高杉晋作による挙兵時も、新地会所が最初のターゲットとされたことにつながるとのことです(小林論文)。

 こうした市大におけるかつての経営学的観点、または経済地理学的・地政学的観点からの明治維新研究は、今後も継承発展させていく必要があると思われます。

 

2.研究報告

「音楽の成立と国家の成立に関する東洋・西洋比較」

講師:徳留勝敏 氏(東亜大学

 

(概要)

 徳留勝敏氏(東亜大学)からは、「音楽の成立と国家の成立に関する東洋・西洋比較」というテーマで研究報告をしていただきました。

 音楽の起源を示す考古学的資料、古代ギリシアの祭礼等の説明に続き、ピタゴラス音律の成立、中世の音楽教程における「思弁的音楽(musica speculativa)」(哲学的音響学)と「実践的音楽(musica practica)」(芸術音楽など)の区別について詳しく論じられました。キリスト教聖歌では旋律が歌詞(旧約聖書詩編)を超えてはならないという鉄則があり、和音が忌避されていたのですが、イギリス国教会で規制が緩和され、3和音が使用されるようになったそうです。こうしたなか音楽が祭礼から自立し、自律的な音楽が誕生しますが、その過程で純正律平均律が誕生・普及します。

 注目すべきは、こうした西洋の音楽、音律の歴史とは異なる展開が、中国において見られたという指摘です。中国においては「楽」(音に関する文化の総称)が儒者たちによって論じられ、これが当初から国家統治の思想と同調していたとのことです。そのなかで「三益損分法」という、原理的にはピタゴラス音律と同一の音律が成立しますが、他方、独自の幾何学的手法を用いた12平均律も登場します。しかしこの平均律は国の統治・安定のために採用されなかったとのことです。

 質疑応答では、ヨーロッパと中国の音律をめぐる扱いの違いをもたらす要因が、自律的な音楽の誕生(欧)と国家統治の安定(中)とに求められていると見受けられるが、具体的にはなぜ特定の音律が統治の安定につながる(そして12平均律ではその目的が果たされなくなる)と考えられていたのか、それぞれの音律の違いを直観的に理解できる音源等はないか、等の質問がありました。転調の容易さが12平均律の普及の大きな要因だったことはよく知られていますが、このことと、「実践的音楽」および自律的音楽の誕生とのつながり、国家当局が(プラトンにもみられる通り)音楽や音律を厳しく管理統制しようとするのはなぜか、など、いろいろな論点に波及していくご報告だったと思います。

 

【徳留先生より後日いただいた質問への回答(抜粋)】

1.12平均律が普及しなかった理由について

 中国における12平均律の受容については、三分損益法で導かれた音のうち、五行説の思想からの5音音階が重要になりました。5音音階は階級を表していて統治者には理想的だったのです。12平均律では五行説の思想になじまなかったため、中国では使用されなかったといえると考えます。しかし5音音階は不思議と世界中にあります。

 

2.音階の違いがわかる音源等について

 ピアノ(12平均律)を含んだ弦楽器(純正調が可能な楽器)とのアンサンブル(ピアノ3重奏、ピアノ5重奏など)を聞くと、ピアノの音程が浮いて聞こえる時が結構あります。弦楽器がピアノの12平均律に合わせている場面も少なくないですが、おそらくピアノ5重奏などを演奏するとき、弦楽器の演奏家は幾分やりにくいと思います。同じ音でも純正律のポジションと12平均律のポジションが微妙に異なることに対応していますから(演奏家たちはこの作業は慣れている感もあると思います)。

 12平均律のピアノと純正律が可能な弦楽器の組み合わせはけっしてベストではないため、作曲家も、ピアノを含んだ弦楽器などとの室内楽の作曲はあまり積極的でないのではないかと思っています。

 決して作曲しないわけではないのですが傑作と言われる作品は、他の様式の作品に比べて極端と言っていいほど数が少なく、さっと思いつくのでもシューベルトの「ます」、チャイコフスキーピアノ三重奏ぐらいです。(ベートーベンやブラームスの作品はありますが)おそらくロマン派時代のピアノは12平均律の調律でなく、ミーントーンと言われる調律であったと思います。

 ミーントーンの調律なら純正律の音律と相性はそんなに悪くありませんが、音律の事情の欠点として転調がかなり制限されるため作曲の幅(可能性)が狭くなります。

 また、合唱や独唱を練習するとき、歌いだしの最初の音をピアノで提示して、無伴奏で正確な音程で歌唱していき、歌唱した最後の音を再びピアノの音で確認する作業をすると、音はけっして合いません。これは独唱や合唱に問題がない場合でも音律が異なるので最後の音は合致しません。平均律純正律の相違で生まれる現象です。

 音律は不具合があるため、色々と研究されていく歴史が生まれたのも事実です。

 12平均律は音楽の創造に可能性を与えたため、12技法、神秘和音、黄金分割など新しく難解な音楽理論が生まれてきました。