都市封鎖と集団免疫のハイブリッド?

イタリアでは都市封鎖の段階的解除が始まったそうです。

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コンテ首相は予防策を徹底するよう呼びかけるにあたって「ウイルスと共生せねばならない」とも述べたそうです。原語を確認していませんが「共生」という語のもつニュアンスからすると違和感を覚えないわけでもありません(「ウイルスとの戦いは依然続く」といったニュアンスの言葉のほうが文脈からは「自然」なようにも見えます)。

しかし、以前も触れた「集団免疫」(herd immunity)の考えからすれば、「柔よく剛を制す」ではありませんが、ウイルスに真っ向対峙しこれを撃退するというのではなく、ウイルスに曝露されても、ウイルスの力そのものをうまく利用してウイルスの病原性を無力化する(「毒をもって毒を制す」)ともいえるでしょうから、これはある種の「共生」とも言えなくはないかもしれません。

とすれば、現時点での社会活動・経済活動再開は、事実上、部分的にであれ、集団免疫方式を取り入れることを意味するようにも思えます。

都市封鎖(ロックダウン)を、病院等におけるような徹底した衛生管理による完全な除菌(またはウイルス除去)に譬えるとすれば、集団免疫を細菌・ウイルスとの「共生」と捉えることへの抵抗はより少なくなるでしょう。

田中宇氏は、そもそも欧州が地域統合のプロセスを維持しこれをさらに進めるとすれば、人の往来を自由にする(シェンゲン協定体制)という眼目からも、本来EUこそ、都市封鎖という例外中の例外措置を早期に解除し、集団免疫を採用してしかるべきだ、と述べています。また、中国のような徹底した感染防止・人民監視体制は、必然的に長期間にわたる鎖国体制を強いますが、これは中国政府も望むところではなく、いずれは集団免疫に舵を切らざるを得ないのではないか、とのことです。

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ウイルスのことですので、微生物生態圏に関する別件の話と結び付けてみたいのですが、19世紀、医学微生物学の祖とされるコッホとパスツールは、微生物へのスタンスについてそれぞれまったく対照的な考えを持っていました。

コッホは、純粋培養による細菌の分離を実現し、そのうえで、生活環境からの病原体の完全除去を目指しました。これに対しパスツールは、病原体のもつ病原性の幅に注目し、弱めた病原体からワクチンを作って、病原体そのものを用いて生体に免疫を与え、病原体の病原性を無化しようとしました(デイビッド・モントゴメリー+アン・ビクレー著、片岡夏実訳、『土と内臓』、築地書館、225-226頁)。

「純粋培養」といえば、脈絡を異にすれば、教育方針として批判的ニュアンスを伴って用いられることがありますね。まったく「汚れ(穢れ)」を寄せ付けさせず、特定の目標に向かって邁進させる、というような教育方針は、どこかに「弱さ」を抱え込んでいるのでは?という疑問も私たちは感じるところです。

これは単なるコジツケというわけでもなく、抗生物質等による病原体の完全除去方針は、むしろ体内の免疫機能を弱めるとも指摘されています。

集団免疫策という「ウイルスとの(いわば)共生」は、ワクチン・治療薬に頼れず、かつ経済活動をあまりに長期にわたって停止させてはならない、という場合の苦肉の策ではありますが、避けては通れない道なのかもしれません。もっとも、この策を講じるにあたっては、(以下に述べるように)最低ラインの条件があります。

日本では「自粛要請」という都市封鎖の弱いバージョンが続いていますが、新規感染者数が減少傾向にあるということで、活動再開への動きも出てきました。この流れからすれば、「強壮な若者(とくに抗体・免疫保持者)は活動すべし」という方針は、けっして非現実的なものではありません。

発言が「炎上」した宮沢孝幸氏は、再度の「炎上」を覚悟のうえで、「1万人の死者を許容する」ことによる早期の集団免疫獲得策に触れたそうですが、

times.abema.tv

この(悪い意味で)功利主義的な極論(?)を持ち出さなくても、田中宇氏が指摘するように、集団免疫策を(他のEU加盟国に先駆けて)実施しているとされるスウェーデンは、死者数の人口比を見ればいまのところ失策だったとは言えないようです。

日本は、様子を見ながら都市封鎖の一部導入と集団免疫策とを組み合わせようとしている、とも言えるかもしれません。ただし、この間、国民が感じている多大なストレスに鑑みても、集団免疫の要素を部分的に取り入れるための最低ラインの条件として、①PCR検査体制のさらなる拡充、②病原体保持者の隔離施設の整備、③急速な重症化に備えての、集中治療室を含む医療体制の拡充、この3点が求められると考えます。