連帯の方法

社会学者のジクハルト・ネッケルが、コロナウイルス蔓延下の社会における「連帯」について語っています。

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連帯とはここでは、相互扶助の義務付けを意味します。自己利益と報償の断念、不利益の引き受けによって他者を救い、そのことで、自分自身が他者に依存せざるを得なくなった際に援助を受ける。つまり文字通りの「相互扶助」が連帯だというのです。

こうした連帯の前提となるのは、確固とした相互信頼です。

ネッケルは、社会学の祖とされるエミール・デュルケムによる、「機械的連帯」と「有機的連帯」との区別にふれています。前者は「類似性に基づく連帯」であり、家族にはじまり自国民にいたるまでの、同族意識に基づく自然的結びつきです。これに対し後者、有機的連帯は、分業と協業による相互依存関係に基づく連帯です。身体諸組織と同様の有機的つながりが社会的分業においても機能していると見られることから、同族間で自然的に存在するというよりはむしろ、人為的・理性的に形成され維持されるべき連帯が「有機的」連帯と称されています。

このたびのコロナウイルスのようなパンデミックにおいては、グローバル経済の相互依存関係がいかに緊密なものであったか、またそのつながりがいかにふだん意識されていないものであったか、私たちは日々気づかされています。このような状況下では、同族・身内どうしの機械的」連帯にとどまらず、相互信頼、相互扶助という意味での連帯関係が、身近な人間関係をはるかに超えた広範な領域で求められていること、つまりグローバル経済とはその実、まさにグローバルな「有機的」連帯の網目から成り立っていることを再認識することが求められています。

ネッケルは、古典的経済理論およびネオリベラリズムの前提:「自己利益の最大化による社会的厚生の最大化」に、以上のような連帯原理:「他者扶助のための不利益の引き受け」を対置します。この連帯原理こそが、70年代以降の社会福祉国家への批判・攻撃にもかかわらず、今日の社会、とりわけ気候変動においても明らかな社会の脆弱性を、より一層露わにしつつあるコロナ・パンデミック状況において求められているというのです。

なお、ネッケルによれば、大地震の場合とパンデミックの場合とではカタストロフィーの性質が根本的に異なります。大地震の脅威は、自然そのもの(主としてプレートテクトニクス)に由来します。これに対し、パンデミックは「人そのもの」が驚異の源です。これは、疫病がまったく自然に由来するものであれ、(今回疑われているように)ウイルス発生そのものが人為的要因によるものであれ、「人から人」への感染が主要因であるかぎりにおいて変わりません。

こうした状況では、連帯の意味も方法も変化を強いられます。

さしあたり、(Covid-19を「中国ウイルス」と呼ぶことをためらわないトランプ米国大統領のように)感染源、感染原因をやり玉にあげようとする心情を伴う自己・自国中心主義が感染防止の最大の動機となるでしょう。しかしよく考えてみればわかるように、外出自粛による感染防止は、他者も同様に振る舞うことなくしては実効性をもたないのは明白です。自分だけが人込みを避けていても、他人がそうしなければ、いつか、人との接触を余儀なくされた際に感染を防ぐことができなくなるかもしれないからです。

その意味で、こういう危機状況においては「連帯とは(感染している可能性のある人々に無防備に寄り添うことを意味するのではなく)身体接触そのものを避けること」でもあり、「コロナパーティを禁じるためにどの通りにも警官を立たせるというのではなく、各自が自宅で待機しながら、なおかつ相互の信頼を保つことが必要だ」ということになるのです。