コロナ・ポピュリズム(2)

以下のインタビュー記事の内容抜粋続き(後半)。

https://www.nzz.ch/feuilleton/philosoph-markus-gabriel-zu-covid-wir-haben-eine-politische-monokultur-ld.1553074

ドイツ人の感染者がひとりもいなくなって初めてスペインなど国外で休暇を過ごすことが許されるのか。そうだとすればもはや国外旅行などできなくなる。インフルエンザ等と同様、新型コロナウイルスもなくなりそうになく、SarsやMersの状況を見てもワクチン開発に過度の期待をかけるのは禁物で、結局、「ウイルスと人間との共存(koexistieren)」は避けられそうにない。

重症化と致死の可能性をもつ新参者ウイルスに対し、あらゆる手段を動員して犠牲を最小限にすべく立ち向かっているのが現状だ。これは計り知れない経済的コストを要するが、それ自体が失業など新たな打撃をもたらす。人命のあらゆる犠牲をなくすのが目的なら、環境汚染や紛争はもちろんのこと、交通機関やアルコールに至るまで禁止すべきであるように思われるがそうはなっていない。covid-19だけ例外扱いしているわけであり、政治行動の指針全体がいびつな分裂状態に陥っている。

そもそも大量消費・大量廃棄をはじめ西洋の生活様式とその帰結そのものがしっぺ返しをくらっていると見ることもできる。コロナ危機は誰もが平等に直面しており、現下の施策の下で「特権的な」西洋人は、消費抑制・環境配慮・尊厳を無視された人びとの配慮を(結果的に)強いられるなか、地球上すべての人びとへの同情を少なくともバーチャル空間で感じている。

医療サービスへのアクセスなど、乗り越えるべき国家間・地域間の不平等も目に見える形で明らかとなっている。かつて(ガブリエル氏が学生時代の兵役代替役務として訪問した)ある養護ホームでは、経費削減のために入居者をまともに歯医者にすら診させず、粥を食べさせてことを済まそうとしたが(ガブリエル氏はこれに対する抗議活動を行ったとのこと)、人びとはいまはじめて真剣に「養護ホームのお年寄りを守らなければならない」と考え始めているのではないか。

いずれにせよ政治的公正や道徳的正義が問われることになるが、その際、「ウイルス学的命法」(virologischer Imperativ)がカント的「定言命法」(kategorischer Imperativ)にとってかわるようなことがあれば、つまり、道徳的問題への思慮がウイルス対策の一点に特化集中するようなことがあれば、それは集団ヒステリーの徴候だといわざるをえない。

単に特定のモデル計算に基づく科学者の政策提言に寄りすがる点だけでなく、無力で従順な公衆と万能の政府という二極構造が予定調和のように固定され、反対勢力も口をつぐんだような状態となっているのも問題だ。滞りがちだったインフラ整備なども急ピッチで進められることだろう。

もっともここには道徳的進歩の兆しもないわけではなく、「働ける人は働く」「そうでない人の生活もなんとか扶養する」という形で、コロナ危機からベーシックインカム実現に向けて合意形成が図られていく可能性もある。【←ここは意訳(誤訳?)】

学問に関して言えば、精神諸科学(歴史学社会学、哲学、文学等)も事実を解明するという任務を持ち、その意味で物理学や生物学と同様「客観性」をもつはずで、コロナ危機についても発言しなければならないはずである。だがこの間、生物学者の発言権が増す一方で、精神科学者がきわめて消極的となっていることの背景には、新たな形での自然主義が精神諸科学に蔓延しているということがある。たとえば人種差別を解消するというそれ自体としては道徳的な政治目標を実現するために、「〇〇人種のアイデンティティ」というようなものを持ち出すとすれば、そのようなものは分子生物学上・進化生物学上、存在されていないと考えられている以上、ナンセンスとなる。

科学の権威を借りるというのではなく、人間の生・生活の実態に即した「研究」の姿勢が求められる。過去におけるパンデミック状況下の人々の生活を歴史的に研究する、というのが好例であろう。また、単に書斎の学問として「人間的生」を探求する、というのではなく、日常生活のなかで「善き生」の可能性を探求するのでなければならない。

「人間は、ただ単に利他的に振る舞うことができるだけでなく、『人間とは何か、何であるべきか』をつねに考えながら振る舞うことのできる唯一の生物である」と、奇しくもダーウィンが言った*1。スーパーマーケットで我先にと列を乱したり他人を非難するのではなく、互いへの配慮を自覚的に行うこと。こういうところで、(精神諸科学が探求すべき)人間の生の真価が問われる。

*1:ダーウィンの『人類の起源』が言及されているが、さしあたり次のような文言が該当するか。「道徳的な存在とは、自分の過去の行為そのものとその動機を反省し、あることを是とし、あることを非とすることのできるものである。…[これは]人間と動物を区別するあらゆる差異のなかの最たるものである。」(『世界の名著 ダーウィン中央公論社、549頁)ただし、道徳的自覚を明確に主題として取り上げた箇所はないように思われる。