明治維新の思想(14)
芝原拓自『開国』から「アジアと日本の試練」のまとめを掲載します。
本章では、浦賀の黒船を始めとする海外諸国からの威圧と日本、そしてアジアの試練について述べられている。
まず、黒船の威圧による日本の対応について述べる。嘉永6年の6月3日に浦賀にペリーが来航した。この時、ペリーは6月9日に久里浜で国書受理の儀式を行った。大統領親書の内容は、両国の親睦と交易とアメリカ商船・捕鯨船の石炭・薪水・食料の補給の為の南岸の1港の開港、難破船員の生命・財産の保護であった。ペリーが来航した理由は、幾つかある。1つ目は、中国やアジア諸国に貿易する為の太平洋上の安定した石炭補給寄港地を要求していた事、2つ目はアメリカの捕鯨船の保護を巡ってである。漂着民に対しての扱いが囚人並と知られたことにより、難破船員の保護と船体修理の寄港地を保障する協定を日本するべきという世論が高まったのである。また、ペリー自身にも野望があった。ペリーはイギリスへの対抗心を表明しており、アメリカが日本の主導権を握るために「琉球」の主要港を占拠することを宣言していたのである。ペリーが那覇や小笠原に対して行った内容は、対外交渉といったものでなく、征服者・侵略者としての振る舞いであった。日本民族としての対外屈辱は、この時が最初だと捉えることができる。
和親のなだれとしては、安政元年の3月3日の日米和親条約を皮切りとして各国と結ぶ事になる。ペリーの軍事的圧力に屈していた幕府は、外交交渉によってロシアのプチャーチンに屈していた。こうした問題によって、和親を結ぶ事になる。安政元年の8月23日は日英和親条約を安政元年12月21日に日露和親条約、安政2年12月23日に日蘭和親条約を結ぶ。旧来から貿易していたオランダと条約を結んだのはアメリカやロシアに比べ後になった。理由としては、アメリカの軍事的威圧による圧力やロシアとの交渉などにより日本がアメリカ等の対応に追われていたと捉えることができる。皮肉にも対外接触の順序では、最も疎遠だったアメリカと最初に国交樹立し、親密だったオランダとの間では最後となったのである。
アメリカやイギリスといった国に対してインドや中国、日本は対応に追われることになった。黒船が来航した嘉永6年は干支で言えば葵丑の年であり「葵丑以来」という言葉は、深まる一方の内憂外患を痛憤する志士たちや内治外交の混迷や危機の深化を憂える為政者の合言葉となった。しかし「葵丑以来」の困難は、決して偶発的なものではなかった。そもそもアメリカが最初に来なくても、世界最強であったイギリスによる武力的な開国強要は時間の問題であったからである。当時、イギリスは中期ヴィクトリア朝の黄金時代であり、ロシアの黒海・東地中海への南下を抑えておりアジアではインドを植民地化し、中国の従属化、日本の開放を迫っていた。イギリスは、クリミア戦争の勝利の直後にインドに軍隊を投入し、ついにイギリスはインド全体を直接統治し、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼任することになった。これは、アジアの従属化、植民地化と最初の民族独立闘争の悲劇的だが画期でもあったのである。また、イギリスは中国にも手を伸ばしていた。アヘン戦争によってイギリスは中国から香港を割譲させ、巨額の賠償金を取った。アヘン戦争を機にアヘン貿易が公然化し、中国の銀の流出は増大した。特に被害を被ったのは、銀で納税しないといけない農民たちであった。この様な問題に対し、中国内部では革命の旗があがり「太平天国」ができたのである。
後にアロー戦争が勃発するが影響は日本にもあった。イギリスの対日通行関係樹立の決定はすでに南京条約の事後処理が終わった後にされていたのである。クリミア戦争が日英和親条約をもたらしても満足していなかったのである。この理由によりエルギン伯爵が、アロー戦争やインドでの戦争のさなかに日本に派遣されるのである。まさに、「葵丑以来」、外圧は加重されるばかりであり、英・仏のアロー戦争の脅威を利用した通商条約締結要求や安政5年(1858)の日米・日蘭・日露・日英・日仏の五か国通商条約への第2のなだれが、アジアの試練の中で襲うことになるのである。
(記:清藤俊文 国際商学科3年)