明治維新の思想(6)

『「明治維新」の哲学』(市井三郎著)第6章のまとめを掲載します。

  『「明治維新」の哲学』の第六章「御一新の思想的源泉」では、吉田松陰の思想の変化を辿りながら御一新の思想について述べられている。
 まず、吉田松陰の政治思想であるが、彼は水戸学に傾倒しており尊王攘夷の思想を持ち合わせていた。しかし、二人の人物との出会いにより、多くの水戸派とは異なる思想を抱くようになる。その二人が黙霖と佐久間象山との出会いである。

 では、この二人が松陰に与えた影響であるが、黙霖から述べていくことにする。黙霖とは話すことと耳の不自由な諸国巡歴の僧侶である。江戸で旧知であった土屋松如の家に滞在した際に松陰著の『幽囚録』を読み、それに感銘を受ける。そこでは水戸学的な尊王攘夷の思想が書かれてあるのだが、黙霖はその考えに徹底的に反論し、お互いの思想を書簡にて激しく交換することになる。黙霖は山県大弐著の『柳子新論』に傾倒しており、幕府体制を根本から否定していた。この影響から倒幕論者としての松陰が誕生し、倒幕を目論むようになる。

 松陰が傾倒していた水戸学だが、そこにはある矛盾が生じていた。一方では幕府への忠順を要求するが、もう一方では攘夷には藩の力を高めることで幕府自体の力も高めていく必要があるとした。幕府は当時、参勤交代や大名の妻子を江戸に招くなどして藩の力を削いでいた。つまり、幕府への忠順は藩の弱体化を招くのにもかかわらず、攘夷では藩の力をつけさせる必要があると論じているのだ。この矛盾を松陰は、幕府の代わりに象徴としての天皇を絶対として国事に国民全員が隔たりなくつくすべきだという一君万民思想で打ち破る。

 次に、佐久間象山であるが、彼は松陰の中で開国と攘夷の二律背反を同居させる上で大きな影響を与えた。水戸派の攘夷思想は西洋人は野蛮であるから有無を言わさずに打ち払うべきという過激な思想であった。これを松陰の攘夷思想と区別するために「信仰的攘夷」とするなら、松陰の攘夷思想は「自覚的攘夷」であるといえる。これは強大な力で有無を言わさずに不平等な要求を求める西洋諸国に対して、早急に力をつけそれを打ち払わなければならないというものだ。いわば毒を以て毒を制すというような思想でこれにより松陰の中では開国と攘夷は必ずしも相反するものではなくなった。これは過熱し、西洋諸国との戦力差が見えなくなっていたこれまでの尊王攘夷思想に新たな風をもたらした。

 これらの松陰のブラッシュアップされた尊王攘夷思想は松陰の処刑後、彼の弟子たちによって世に広まり、後の時代の大きな推進力となった。

(記:木塲昂汰 経済学科3年)

水戸派の「信仰的攘夷」と佐久間象山吉田松陰の「自覚的攘夷」。この区別がどれだけ妥当なものなのかが、一つの論点となるでしょう。幕府の進める対外協調路線に対し徹底的な揚げ足取りをし、攘夷実行と暗殺とを繰り返し、天皇を利用し尽し、イギリスとも手を結んで政権簒奪に及んだのが、松陰門下生たちであった、という解釈もあります。

市井はこの章では松陰を取り上げ、「御一新の思想的源泉」がここにあるとしていますが、実は「思想」的側面にはあまり踏み込んでいません。とくに水戸派と松陰との思想的相違にはあまり言及していないのです。何を以て「信仰的」、何を以て「自覚的」とするか。ここをより一層明確化する必要があるでしょう。