長州の政治経済文化(13)

 「〔石高において〕大規模な藩が必ずしも政治的に重要な藩であるわけではないが、重要な藩はつねに大規模な藩であった。」

 クレイグはこのように述べて、藩の軍事力の決定要因として、武装、訓練、士気、リーダーシップだけでなく、経済規模の重要性を指摘します。

 この点で薩摩および長州において特徴的であるのは以下の二点であるようです。

①名目(幕府への届出)の石高よりも実質の石高が高いこと:

 他藩にも例があるが、長州・萩藩は特に顕著で実勢水準が名目の約37万石をはるかに上回る71万石以上であった。名目を下回っていたと推定されるのは水戸藩など。

②石高に比例させた場合の武士階級の数が平均的値の2倍程度であったこと:

 これは主に減封による。薩摩=島津の場合は豊臣秀吉の九州平定による/長州=毛利の場合は関ケ原の合戦で西軍についたことによる。この結果、郷士--"samurai farmer"と解説--のように在地武士という、城下町武士とは対照的な、「より古い形態の武士」が常態化していた。名目石高を上回る実質石高もまた武士階級を養うことを可能にしたとも指摘されている。一方、徳川直轄領に目を転じると、意外にも、総石高とはまったく比例しない僅少な武士階級しか存在しなかったという。譜代・親藩大名に武力を依存していたことになるが、これはいわば銀行のように「信用に依存する体制」であり、幕末に幕藩体制が脆くも崩れ去ったのは、直接の管轄下にある武力の裏付けが十分でないところで、信用のみに基づいて権力が保持されたからであるという。