明治維新の思想(20)

芝原拓二『開国』から、「下民一時の蜂起」のまとめを掲載します。

  幕府権力の威信をかけた征長体制が進行する慶応期の幕府にとって、人民大衆は敵であった。とはいえ、民衆が幕府と直接の政争をくりひろげていたわけではないし、両者が宣戦布告しあったというわけでもない。けれども、人民大衆こそある意味では最大の幕敵であり、その原因は一朝一夕のことではなかった。

 将軍家茂が征長本営として大阪城に入るや、彼に随行した諸大名・旗本の軍勢は、じつに十〇万を超えていた。この大軍勢の集結が大阪やその周辺の物価をさらに一気におしあげ、かつ人夫徴発など様々な負担増を民衆に強いた。しかも征長軍の軍紀・風紀はみだれ、町家へのゆすりやたかりも後を絶たなかった。このような軍兵を、畿内の民衆は歓迎するはずもなく、慶応元年九月ごろには大阪市中でいとも物騒なはやり歌が流行しはじめた。はやり歌は何種類もの歌詞を派生させながら、市井の庶民のやり場のない怒りをこめて口ずさまれていたのだろう。

 同じころ、畿内の庶民たちのあいだに、いつとはなしに「無念柳」や「残念さん」への参詣がひろがりはじめた。破壊された大阪長州藩邸前に残った柳の木を人々は「無念柳」と称し、尼崎で果てた長州敗走兵の墓碑は「残念山」と称され、大阪市中でも切腹した長州藩士や吉村寅太郎の碑さえもが「残念さん」として参詣人をあつめた。庶民たちのこの動きをたんなる長州びいきと見るのは間違いであろう。彼らの底流にあるものは、物価高や諸負担増による生活破壊の元凶を幕府権力にもとめざるをえない憤りと、世直しの希求に反する大内戦への切迫感である。彼らにとって幕府は極悪であり、それに敵対する長州が世直しの味方のように見えたにすぎない。

 慶応二年ごろには、勝海舟西郷隆盛はともに下民を支配し、統治する幕府と長州の亀裂が下民一時の蜂起をまねいて共倒れになるような事態こそ、もっとも恐れるべきことである、という懸念を表明していた。ここでは、長州とは別のもう一つの幕敵である人民大衆が、封建的支配階級総体への敵でもあることが明確に意識されていたといえる。征長反対の諸藩もこれと同じ危機感をもって、幕・長ともに「同属」たる原点にたちかえれ、と訴えつづけていた。しかし、幕府は征長体制を止めることなく進行しつづけ、幕府が全軍に出撃態勢を命じた時あたかも、下民一時の蜂起が始まり、その狼火は幕軍の本拠と背後を脅かすように、燃えひろがっていったのである。

 革命的情勢という概念は、全体制的な社会の変革に関わる概念である。これはまさに動と反動、革命と反革命をめぐるはげしい闘争が頂点に達し、後には引き下がれない極限的状況の政治的沸騰において問題とされる概念である。それは被支配層が部分的、改良的な改善を支配層に求めるばかりでなく、もっと根源的な社会の変革を渇望して支配層にせまることを基本条件とする。そして、支配層自体もまた、もはや旧来の体制のままでは統治と秩序を維持できずに、どのように再編するかをめぐって、上層そのものの亀裂と対立が激化。しかもこの亀裂と抗争が、ますます被支配層に負担増と困窮や不満を高じさせ、被支配層の活動性がいやますような情勢こそ、危機の極限としての革命的情勢である。革命的情勢をこのように規定できれば、幕府・長州決戦にまで突入しつつある亀裂、抗争こそ、旧来の幕藩体制秩序の維持が不可能となっていることを、何よりもよく表現している。上層はどのように支配体制を再編強化するかをめぐって激突しつつあり、その激突がかえってますます民衆に物価高や徴発を耐えがたくさせ、今その不満と激高が客観的に見れば幻想をこえないものであるにも関わらず、根源的な世直しを希求する下民一時の蜂起を激発させてしまったのである。その意味で征長戦争そのものと、戦争が民衆蜂起をまねきよせてしまった慶応一、二年こそ、まさに革命的情勢の到来の画期である。そして「世直しの状況」を論ずる場合には、この全機構的な連関をとらえて論ずるべきであろう。

(記:和田裕生)