明治維新の思想(5)

『「明治維新」の哲学』(市井三郎著)第3章と第5章のまとめを掲載します。

【第3章 幕府の衰退と人民の抵抗】

 『「明治維新」の哲学』の第三章では、主に、農民の抵抗運動から始まった幕藩体制の衰退と明治維新の実現への起因を思想の観点から見て推察している。まずは幕藩体制の衰退のきっかけとなった農民の抵抗運動の起伏について説明する。
 17世紀から18世紀に変わるころに全国の米生産高が江戸期の最高に達し、その後漸減をたどっていく。しかし、とりたてられる年貢米の総量は減ることはなく、農民の生活は過酷なものとなっていった。年貢米が減らない原因は、商品経済の台頭と町人階級への富の流入であった。それが当時の幕藩体制における封建制度に対する矛盾を生み出し、そのすべてのしわよせが身分の低い農民に向けられた。それによって、農民の抵抗運動(一揆)が増えていく。しかしながら農民の抵抗には限界があった。特に下等農民は満足な教育を受けることができなかったものも多く、そのため幕藩体制そのものの否定を志向するのは困難であった。したがって、幕藩体制そのものをいかに改めるかという発想と、それを実現するための指導力を、直接生産に従事しない知識人(武士、学者、医師、僧侶など)にゆだねざるをえなかった。
 次に、そのような抵抗運動がおこる中でゆれる幕藩体制について説明する。幕藩体制には、他にも世襲身分制や封建制度による文物の停滞などの問題があった。ただ、このような原則的不合理性にもかかわらず、場合によって、原則の妥協、修正を許すことによって、その停滞性をやわらげていた。しかしそれは、あくまで例外措置であり、例外事項が増大して、幕藩体制の本質そのものが変質する、というほどまでに体制の原則が修正されることは一度もなかったのである。つまり、幕藩体制とは、幕府自身の安泰と利益とを最大の眼目として作りだされた体制であった。国全体としてみたときに外国を比較対象から排除しており、それが鎖国という政策によって表されている。しかし、長崎とオランダの交易が封建体制の危機感をあおるような情報を蓄積させていったことをきっかけに、知識人を筆頭に体制批判の言論と行動が増えていく。有名なものとして、1837年の大塩平八郎の乱生田万の乱1839年蛮社の獄渡辺崋山などが鎖国体制を批判したことによる罰)がある。彼らを動かした背後の思想的系譜は複雑であるが、三人の共通点として陽明学の影響を受けていることは注目すべき観点である。
 では、次にそのような明治維新の実現への起因となった国内思想的要因と、経世的洋学派の台頭について説明する。明治維新の実現への起因となった国内的思想的要因を明治の思想家、岡倉天心が著書である『日本の目覚め』で「三つの別々の思想の流派が合一して日本更生の起因となった。第一の思想は探求することを教え、第二は行動することを教え、第三は行動の目的を教えた。…」などと述べた。彼の言う三つの思想の、第一の思想は古学派、第二の思想は陽明学派、そして第三の思想は国学派である。しかし、天心の歴史的見取り図には重大な書き足しが必要である。天心の言う第三の思想の国学派であるが、それは、「行動の目的を教えた」というより現状批判の心情を掻き立てただけであり、つまり、思想の論理として幕藩体制そのものを否定する力はなかったのである。よって、変革へのインシャティヴを生み出す思想は別のところから加わらねばならない。そこで考えられるのが蘭学などの洋学研究派の思想である。19世紀に入るまでの洋学は自然科学的な覚醒を意味するに過ぎなかった。しかし渡辺崋山が天保の飢饉などの相次ぐ飢饉のなかで、西洋が軍事技術ばかりでなく農学をも含めた自然科学の進歩を、社会制度の違いに目を付け、問題意識を発展させたのである。そして、崋山らは、西洋の国内体制は政治と教学とをはっきり区別し、身分によらず、才能に応じて自由に学ばせ、公に討論・実験させる制度が、当時の東洋に優越するに至った所以であることをはっきりと認識した。しかし同時に、西洋の対外的な態度が有徳でないことも確認した。対外侵略・膨張の趨勢は対内政治が優れているからなのかという懐疑に陥り、進んで国交を持たぬ方がよいと判断したのである。
 以上より、第三章のまとめを述べると、封建制度の様々な矛盾から幕藩体制への批判の言論と行動が増えていった。そこから西洋に対する関心が増え、明治維新の実現へのインシャティヴの一つとして、洋学の思想が関係しているのではないかと推察する。 (記:冨森大輝 経済学科3年)

政治からの学問研究の自由(身分を問わず誰でも自由に研究に参加し、その内容の真偽を公論によって決する)。これが、身分を超えた人材登用と相まって西洋諸国の優越性を特徴付けるというのが「経世的洋学派」の認識でした。

福沢諭吉も『文明論之概略』(1875年)において次のように述べています。「自由の気風はただ多事争論の間にありて存するものと知るべし。秦皇〔始皇帝〕一度び〔「焚書坑儒」政策により〕この多事争論の源を塞ぎ、その後は天下復た合して永く独裁の一政治に帰し、政府の家はしばしば交代すといえども、人間交際の趣は改ることなく、志尊の位と至強の力とを一に合して世間を支配し、その仕組に最も便利なるがために、〔漢の武帝の時代における儒教官学化に見られるように〕独り孔孟の教のみを世に伝えたることなり。」(岩波文庫37-38頁)

福沢が影響を受けたとされるJ.S.ミルの『自由論』(On Liberty, 1859)でも、真理探究のために自由な言論の重要性が強調されています。「権威によって抑圧せられようとこころみられている意見は、あるいは真理であるかも知れない。…それの誤っていることを彼らが確信しているという理由で、或る意見に耳をかすのを拒むことは、彼らの確信をもって絶対的確実性と同一視することである。すべて議論を抑圧することは、自己の無謬性を仮定することである。」(岩波文庫、39頁)

 

【第5章 外国条約と安政の大獄

 第5章では諸外国との条約締結についてと井伊直弼安政の大獄について述べられている。まずは条約締結についてまとめていく。日本は嘉永の終わりごろから安政初期にかけてアメリカ、イギリス、ロシアなどと和親条約を締結している。その条約締結の背景にあるものは当時大陸で勃発していたクリミア戦争である。日本は交戦中である各国に対し中立の立場をとらざるを得なかったが「貿易は抑え、当外国船の薪炭・食糧の供給や、船舶修理の場合にだけ限られた港を開く」という基本方針はその立場に適していた。

 アメリカは先に結んだ日米和親条約に基づき、通商条約を結ぼうと画策を始める。それを受け阿部正弘堀田正睦を外務専任の老中に任命した。それにより幕府直属の海防掛は堀田の手足となった。堀田、並びに海防掛の人間はいずれも阿部の息のかかった人間であり、通商条約締結の基本方針は閣議でほとんどが決定されることになった。

 通商条約に際し、問題点として以下3つが挙げられた。

1. 具体的にどのような条件で通商するか
2. 諸条件の交渉を米領事に江戸に来ることを許して閣老がやるかどうか
3. 「夷狄」との通商条約に頑強に反対する国内勢力をどうするか

 次に大老井伊直弼についてまとめていきたい。井伊直弼阿部正弘が肝硬変を患い若くして急死した後に大老として就任した。彼は阿部正弘が進めてきた挙国一致体制を「祖法」に反するとして嫌い、独裁権を振るう独裁政治へと逆行していった。更に彼は血統論を重視し、世襲身分制を推進し、一橋慶喜徳川慶喜)の就任にも反対した。また、違勅であるにもかかわらず諸外国との通商条約に調印し、尊王攘夷派の怒りを買った。
こうして多方面に敵対していく井伊直弼だが、彼は先に述べたように独裁権を振るい、敵対した人物、勢力を次々に刑に処していく。この事件が安政の大獄である。その終わりには吉田松陰橋本左内ら八名を処刑する。この処刑の結果尊王攘夷運動に拍車がかかり、情勢は大きく動いていく。 (記:清水勇樹 経済学科3年)

阿部正弘井伊直弼の対置、前者の穏健改革路線を高く評価し、後者の反動主義をのちの「御一新」の急進化への引き金として解釈する。これが本書の特徴と言えるでしょう。阿部の改革路線が彼の急逝によって中断されたために、西洋の科学技術導入、公論による政治決定、人材登用策等によって、列強に屈せずして開国するという「最良の可能性」(117頁)が絶たれたと、筆者市井三郎は見ています。そしてこの「最良の可能性」を代表していたと市井が見るのは橋本左内でした(同)。

幕政を当面維持しつつ、内外の緊迫した情勢に適合した政治改革が可能であったか否か。それとも、「御一新」およびそれに伴う数々の犠牲なくして改革は不可能であったのかどうか。こうした論点も考慮に入れていきたいと思います。