明治維新の思想(4)

『「明治維新」の哲学』(市井三郎著、1967年)第2章のまとめを掲載します。

 「明治維新」の哲学の第二章では、一世紀前の先駆者山県大弐について述べられている。まず、山県大弐とはどういった事を行なった人物なのかについて説明したい。山県大弐は1725年に甲府近郊の下層武士の子として生まれ、江戸に家塾を開き、儒学・医学・兵学を講ずる浪人学者としても知られている。

幕府体制に強い批判を持ち、幕府打倒を呼びかけた激しい著述『柳子新論』を脱稿したことで有名である。1767年の「明和事件」にて謀反の企てが密告され斬首刑に処され亡くなっている。

2番目に明和事件山県大弐について説明する。山県大弐が斬首刑で亡くなる前の1764年に「明和の大一揆」と呼ばれた関東の北西部で起きた江戸時代最大の一揆が起きている。大一揆が起こる由縁を自分の家塾に通う門下生などとの繋がりから前々から洞察していた大弐は、この大一揆が持つ意味に深く教えられ、一揆を転じて有効な体制改革の力たらしめようとする指導理念を築きあげた。そして、それ以前の1759年には幕府体制の打倒を呼びかけた激しい著述『柳子新論』を脱稿している。また幕府転覆を目指す農民兵の構想として、百姓の年貢の負担を大幅に緩めて、余裕のできた百姓たちに学問や武術を教え、おびただしい庶民を変革のための軍事力に転化させるという考え方の新しい農兵論を主張した。その士農の差別を超えた奇兵隊の構想は、まさにこの時の山県大弐に始まり、大弐の門下生である吉田玄藩によって実行に移されていった。

大弐は朝権の回復運動を目指していた竹内式部という学者の門人で公卿の家司をしていた藤井右門を介して、竹内式部の運動や、京都の公卿と連絡を取り、記紀にしるされた英雄たちの碑を甲府や江戸近郊に建てるなど二年や三年のちの蜂起を目指した動きではなく、最低十年くらいはかけて一般に教化運動をやり、全国にいくつか中核になる革新諸藩を作ることが実践プランだったようにと思われる。しかし、山県塾に出入りしていたある浪人と町医者とが、卑賤な動機から虚実とりまぜて幕府に訴え出たことや小幡藩士による異例の抜擢を受けて藩政改革にうちこむ吉田玄蕃を、隠居している前藩主に密告する者が出たことで、玄蕃はただちに拘禁され、その前藩主織田信栄からも、「大弐一味の謀反の企て」が幕府に報告されたのである。1762年2月から翌月にかけて、大弐をはじめとする関係者四十名ばかりが続々と逮捕され、捕縛され、江戸へ送られた。そして大弐は斬首刑という判決を受け、門下生の藤井右門と共に命を落とす。しかし、深く覚悟を決めていた先駆者の最期は長い徳川時代の間に、処刑間際になっても取り乱さず、その態度の見事さが獄史をも感銘させた死刑囚として吉田松陰とならび、江戸期の幕府死刑執行人の間に代々語り伝えられてきたという話がある。

3番目に革命家大弐の人民主義について説明する。山県大弐は革命家として人民主義を持っていた。儒学兵学の才能を利用して将軍の側用人大岡忠光にとり入り、幕府代官の地位に就き、代官をしながら幕府の内部を探りつつ、密かに『柳子新論』を書き続けていた。また民衆意識の啓蒙を目指して、日本武尊の碑を甲府郊外に建てている。自己については謙虚な気持ちをもち、同志に対しては真情を、変革については不退転の信念をもった革命家だったと知られている。そして古代王朝を理想化した人民主義体制を唱え、武士が政治権力を握る、ということ自体をよくないことと考え、従って幕府以来の全ての幕府体制を否認した上で、当時の徳川幕府をなぜ倒さねばならないか、という根拠を「孟子」の放伐論に求め、明確に人民主義的な革命理論にしていたこと、幕藩体制の代わりに出現させるべき政治形態として、天皇のもとに全国民的統一があった古代王朝時代を理想化した体制を考えていた。

4番目に『柳子新論』の思想について説明する。大弐は「安民」実現のための天皇体制を理想としていた。「安民」とは民を安んずる事を意味する。大弐は『柳子新論』の中で、人間性は本来平等だが、人々には才能や好き嫌い、性格などの違いがあり、したがって人為的な制度を設けることによって、あるべき形の「差等」—つまり人々の能力に応じた官制や職制の区別を生じさせたとし、天皇体制が良いとする理由も「差等」がおこなわれ、「安民」がもっともよく実現させるからだと主張した。国家の統治者は、民を安ずるという天命を果たす限り、統治者たる資格を持つのであって、その資格を失えば、天は命令を革めて他の人間に統治を命じ、前統治者を武力で討伐させるという中国での革命思想の源泉である『放伐論』を論拠とし、あらゆる幕府体制はいけないものだと否認した。軍人による政治は古代王朝政治の理念が、武家の幕府政治では損なわれて軍国主義的なものになり、人民の福祉を阻害するからダメだとし、武士が政権を握ることに反対した。つまり、大弐の言う王道政治は、文人が優位しなければならない政治であり、幕藩体制のように世襲身分制であってはならず、才能や識見に応じてどしどし登用していくべきだとした。そのような王道理念に反する幕府体制を、武力で倒すことの正当性を「民と志を同じうする」ことに求める。「民と志を同じうす」る限り、「群下」の者でさえ放伐に立ち上がっていいのだという主張において、山県大弐は江戸時代に類を絶したただ一人の思想家、そして実践家だったと言える。

最後にまとめをする。山県大弐幕藩体制を痛烈に批判し、天皇を中心とした政治を理想とし、それを『柳子新論』を脱稿し主張した。幕府への謀叛が密告され志半ばで「明和事件」で亡くなるが、江戸時代を代表する革命家として歴史に名を残した人物である。(記:安田優斗 経済学科3年)

文人中心の、人材登用制度を駆使した統治機構。これが山県大弐の理想でした。市井の引用する「文武の別」(「文は以て常を守り、武は以て変に処する者たるは、古今の通途にして天下の達道なり。今の如く、官に文武の別なければ、則ち変に処する者を以て常を守る、固よりその所に非ざるなり。」51-52頁)は、政治・統治の基本理念として傾聴に値すると言えるでしょう。