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全人的教養を目指すゼミ@下関の活動報告です

明治維新の思想(3)

アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』では、三章分を割いて下関戦争(1863, 1864年)について触れられています。該当箇所が次のサイトで引用されています。

http://ktymtskz.my.coocan.jp/J/futuin/sato0.htm

 第九章では次のように書かれています。

 ラザフォード卿は帰任するに際し、実に大きな権限をあたえられてきていた。
 彼は、長州藩の敵対的態度に対し膺懲(ようちょう=こらしめ)を加えようと決心していた。
 我々は、もはや薩摩の好意を獲得したと言ってもよかったので、もう一方の攘夷派の首魁(しゅかい)である長州に対しても薩摩に対したと同様の手段を用いるならば、同じく有利な効果が得られるものと充分に期待していた。
 長州の人々は、前年の夏に天皇から「攘夷」の詔勅を無理やりに頂き、その詔勅に従って、下関海峡を通過したアメリカの商船や、オランダのコルペット型艦、フランスの通報艦などを砲撃した。

〔中略〕

 〔…〕砲台は撃破したが、一度外国の軍艦がその場を去るや、長州人は直ちに砲台の修築、増設をやり、できるだけ多数の大砲を集めてそれに据えつけた。
 こうして、熊蜂の巣は間もなく充分に修復され、攻防ともに旧にも増した威力をそなえるに至った。
 外国船は従来長崎に寄港してから、風波の高いチチャゴフ岬(訳注=九州南端の佐多岬)を避けて、愉快に楽に瀬戸内海を通って横浜へ回航するのを常としていたが、今や一隻も下関海峡を通ることができなくなったのだ。
 これでは、ヨーロッパの威信が失墜すると思われた。
 日本国内の紛争に頓着なく、いかなる妨害を排除しても条約を励行し、通商を続行しようとする当方の決意を日本国民に納得させるには、この好戦的な長州藩を徹底的に屈服させて、その攻撃手段を永久に破壊するほかはない。

二か所の太字強調箇所(引用者による)に注目しましょう。一つ目は、薩摩藩が英国人殺傷事件(生麦事件)に対する軍事的報復を受け(薩英戦争)、英国に敗北を喫したのを機に急速に英国に接近したことから、「同様の手段」を用いることによって長州藩をも味方に引き入れることができるのではないか、という見通しを語っています。

63年の関門海峡での砲撃が米、蘭、仏に対してのもので、英国はそこに含まれていなかったのはさすがに偶然であって、それ自体英国の策略の一環であったわけではないでしょう。とはいえ、引用文のような記述は、すでに薩摩藩との交戦を経験した英国が、交戦を通じて味方に引き入れるという奇策を長州に対してもいわば「応用」したのだという風にも受け取れます。

現にサトウは緊急帰国直後の伊藤俊輔(後の博文)および井上聞多(後の薫)と交友関係にありました。長州との講和交渉に際しては彼は、伊藤、井上とともに、長州側代表の高杉晋作の通訳を担当しました。

二つ目の強調箇所からも分かるように、開国直後の当時、関門海峡は欧米列強にとって交易のための要衝でした。海峡を自由に通行できることが「ヨーロッパの威信」に関わると述べていることに注目したいと思います。こうした表現から、また先ほどの計略からわかることは、サトウはいち早く薩長の新たな政治勢力としての可能性を見抜き、これに対して最大限の軍事的圧力を加えつつ、イギリスの権益確保のために両藩をパートナーとすることに意味を見出していたということです。

これは単に貿易上のパートナーシップにとどまりません。討幕後の新たな政治体制構築に当たっても、サトウの伊藤、井上との交友関係はカギを握っており、彼らにとってサトウは近代的な政治制度を整備するためのよきアドバイザーだったのです。