ミアシャイマーの悲劇リアリズムという教条主義

ミアシャイマーをめぐる状況がわかりやすくまとめられているインタビュー記事。

「世界で最も嫌われる学者」ジョン・ミアシャイマーの悲劇 | ウクライナ危機をめぐる自説で物議を醸し続け… | クーリエ・ジャポン (courrier.jp)

人類は世界の悲劇から永遠に逃れられないのか? | 「リアリスト」国際政治学者ミアシャイマーに聞く | クーリエ・ジャポン (courrier.jp)

後半の記事のなかで、ローレンス・フリードマンミアシャイマーについて次のように評価しているが、これはリアリズムがその反対の教条主義に転化する可能性を指摘するものでもある。

ジョン(・ミアシャイマー)がロシアの行動を解説すると的外れになるのは、国際システムばかり見て、国内で何が起きているのかを見ようとしていないからです。

彼はウクライナNATOに加盟しようとしていたと言っていますが、そんな事実はありません。また、ウクライナには自国の針路を決める権利がないといったことを言って悪びれる様子もありません。ロシアがウクライナをまるで植民地であるかのようにみなして振る舞っていることも見ようとしていません。

私はリアリストを自任していますが、いまそこにある現状を見て判断するのが私のリアリズムです。何らかの理論に教条主義的に固執して、自分が見たい現実を見ようとするリアリズムではありません。 (強調は引用者)

ミアシャイマー自身の「理論」は、彼自身の言葉で次のようにまとめられる。

何が悲劇なのかというと、たとえばここにふたつの国家があるとします。どちらの国家も、現状で満足し、戦うことにも、権力をめぐって争うことにもまったく関心がないとします。しかし、両国とも、相手の国が何を考えているのかがわかりません。加えて両国ともアナーキーな国際システムのなかで動かなければなりません。その状況では、両国とも、相手国が引き起こしかねない最悪の事態を想定しなければなりません

その結果、両国は権力をめぐって争うことになるのです。多くの人は、この悲劇の論理から抜け出すのは無理だと言われても納得しません。しかし、私が言いたいのは、この世界では、大国がつねに安全保障のために争いはじめ、ときには戦争が勃発してしまうことです。私たちがそんな世界から抜け出すことは未来永劫、不可能なのです。 (強調は引用者)

ミアシャイマーに言わせれば、「悲劇の論理から抜け出せないこと」こそが、厳然たる「事実」なのである。そしてこの「悲劇の論理」という「教条」に忠実に従う政治家がいるのも「事実」だということになる。現にその筋書き通りに、ロシア・ウクライナ戦争が進行している。

一方、上述のフリードマンの「いまそこにある現状を見て判断するリアリズム」にも、「現状」の追認ではなく一定の「判断」にあたっては、上位の価値や規範が必要とされるはずだ。目の前の現実から自動的に一定の結論が出てくるわけではない。事実を踏まえるのは手続き上の問題であり、必要条件ではあるが、十分条件ではない。

いわゆる「リアリズムか、それともリベラリズムか」というのは、さまざまな誤解を招くという意味でも問題だ。とくにこの対立軸は、研究手法や研究姿勢の問題;「現実を踏まえるか、それとも価値や規範・信条を語るか」としてとらえるか、それともイデオロギーの問題;「戦争をしばしば伴う勢力均衡説か、それとも自由と民主主義を中心とする平和維持説か」としてとらえるかによって、論者の見解の評価軸として大きく異なってくる。その意味で言えば、ミアシャイマーは研究手法の意味ではやや「リベラリズム」に近く、彼が「リアリズム」の立場に立つというのは、主としてイデオロギー上のことだということになる。

記事によれば、ミアシャイマーフクヤマのリベラル・デモクラシー進歩史観も、その師でミアシャイマーも大きな影響を受けたというハンチントンの文明衝突論も、ともに受け入れることはできないという。とするとこれは大まかに言えば、文化(ソフトパワー)要因を度外視した、政治的・経済的覇権と軍事力(ハードパワー)だけによる勢力均衡論だということになる。中国人はしきりにミアシャイマーとの議論をしたがるそうだが、いずれ米中の軍事衝突は避けられないとするミアシャイマーの結論は、この立場から必然的に導かれる。

文化要因を考慮に入れれば、結論は異なるものになる可能性が大きい。これは、ウクライナからパレスチナへと戦火が拡大する状況下で、中国がどのように振る舞うか、という問題にも関連してくる。

(10/14追記)中国政府の提案:中国・王毅外相 イスラエルを批判、 問題解決のための国際会議開催を提案 | TBS NEWS DIG (1ページ)