思想戦の挑戦と応戦

これは問題作だ。

ロシア誌に掲載された「著名学者による『核攻撃必要論』の戦慄の中身」 | 「核兵器に対する恐れを復活させなくてはならない。さもなくば、人類は破滅するだろう」 | クーリエ・ジャポン (courrier.jp)

核攻撃の進言、という触れ込みは正確ではない。核抑止論の戦略的具体化、と言うべきだ。

ただ、なぜそんな議論がでてくるかというと、一つには筆者が正直に認めている通り、ウクライナ問題が首尾よく進まないことがある。

追い詰められて伝家の宝刀に頼るという動機以外に、核抑止論が正面からでてくる理由はないと思われるのだが、筆者はまことしやかに、文明間戦争、世界観戦争のレトリックを紛れ込ませている。

その大筋はしかし、グローバル・サウスまたはグローバル・マジョリティのエスタブリシュメントの意向に沿うものかもしれない。筆者が最も心血を注いでいるのはまさにそこだ。

最大のポイントは、中国とインドの経済的躍進を背景とする国際政治状況の多極化を、その背後からロシアの軍事力が支えていく、というシナリオである。ロシアはロシアで「東方」(ウラル・シベリア)へと文明・文化(思想)の軸足を移すという見通しが語られるが、それはあくまでも中国・インドとの緩やかな連携の前提としてであり、ウクライナという「西方」問題は、(「東方」問題に専念するためにも)できるだけ早いとこ片付いてくれないだろうか、というのが筆者の本音のようだ。

筆者の専門分野からすると、核抑止論(≒核による脅し)の具体化が核戦争抑止のための唯一の手段だとのくだりが焦眉で、これを編集者は核攻撃の進言、と早とちりしている。ここは筆者自身もやはり認めている通り、到底科学的な言い回しになっていない。

ただ、筆者が神を持ち出して核兵器の存在意義を語っているところを、科学的な言い回しに翻訳するとどうなるか、を考えてみることは無価値ではなかろう。たとえば、「核抑止手段を戦略的に具体化することは、西側諸国の一極支配に最終的に終止符を打ち、多文化共存のあらたな文明構造を築くための不可欠の手段だ」というのが筆者の意図であるとも解釈できそうだ。

上記のように、核抑止論が登場してきたのはロシア側の「焦り」の結果としか思えないため、いまさら何を、という話ではある。だが、グローバル・サウスまたはグローバル・マジョリティの一定数(多数?)が同調ないし黙認しそうな筋書きではある。ここのあたり、とりわけ「もし本当に核兵器を使ったらどうなるか」についての主に新興国側への配慮も、筆者は欠かさない。

ともかくもまずは、たとえば、以下のようなくだりを丁寧に反論するのが、このもっともらしい話を切り崩すための出発点となるように思われる。荒唐無稽な妄想と切り捨てるのではなく、相手方からのそれなりに理論武装した挑戦に対する、思想戦のマナーに則した相応の応戦は必要ではないだろうか。

我々自身について言えば、先制攻撃を遅らせたのは、衝突の必然性を見誤ったためか、力を蓄えていたためである。さらに言えば、近代の、主として西欧的な軍事・政治思想に則して、軽率にも核兵器使用の敷居を高く設定し、ウクライナの状況を適切に評価できず、そのため現地での軍事作戦を成功裏に開始できなかったという事情がある。 

 

西欧のエリートたちは内面的に堕落しており、70年にわたる幸福、飽食、平和の後に生えてきた雑草を積極的に育みはじめた。つまり、家族、祖国、歴史、男女間の愛、信仰、より高い理想へのコミットメント、人間の本質を構成するものすべてを否定する「反人間的イデオロギー」を養っているのだ。